p. 3-48 ジャン・アンリ・ファ-ブルの きのこ
Les CHAMPIGNONS de Jean-Henri FABRE
監修 Auteur
クロ-ド・コサネル Claude CAUSSANEL
国立自然史博物館教授
昆虫学研究所長
ファ-ブルのアルマス博物館長
著者 クロ-ド・コサネル Claude CAUSSANEL
イヴ・ドゥランジュ Yves DELANGE
パトリック・ジョリ Patrick JOLY
ディアヌ・ドゥ・マルジュリー Diane de MARGERIE
同朋社(Editions CITADELLES)出版
日本語版監修本郷次雄,田 俊穂、翻訳 Toshie, Daniel Guez,版 30 x 38cm, 446ページ,総厚手アーt、紙,カラー,同朋舎出版 1993年11月20日発行,定価 70,000円
国立自然史博物館特に館長のジャック・ファブリエス氏のお蔭で、セリニャン市のアルマス博物館に保存されていたファ-ブルのきのこの水彩画が、初めて出版できたことを心からお礼を申し上げます。
きのこ図版の説明文はフランス菌学会の協力で以下の方々によって作成されました
指導 Direction
パトリック・ジョリ Patrick JOLY
フランス菌学会元会長、国立科学研究センター指導教授、国立自然史博物館隠花植研究所指導教授
Président de la Société Mycologique de France, Directeur du Muséum d'Histoire Naturelle de Paris
説明文の著者 Auteurs des Notices (planches)
ロジェ・カイユ- Roger CAILLEUX、ピエル・コラン Pierre COLIN、クリスチャン・ダグロン Christian DAGRON、シルヴァン・ドロン Sylvain DRON、エドワール・フィシェ Edouard FICHET、アンドレ・フランクーロン André FRANCOULON、ガストン・ガルニェ Gaston GARNIER、パトリッス・ルロ- Patrice LERAULT、ジェラール・マルタ ン Gérard MARTIN、ギー・レデゥユ Guy REDEUILH、モーリス・ロジェ Maurice ROGER, ダニエル・ゲイズ Daniel GUEZ。そのほか、この作品の出版に当たり多大なご協力を賜った方々に心から御礼を申し上げます。
Photographies des aquarelles 水彩画の写真 ドミニック・ジュネ Dominique GENET
目次
【原本のページ番号】
序文.... .............. 9
現代の英雄ジャン・アンリ・ファ-ブル ... 11
ファ-ブルの科学者としての業績とその道のり 33
ファ-ブルの菌学の作品...........83
きのこ .................115
きのこ図版の研究 ............117
用語例 .................119
きのこの水彩画..............125
参考文献.................439
学名索引.................443
和名索引.................445
序文
昆虫界の先唱者 Jean-Henri Fabre は、昆虫記の作者であり、高名な科学者であり、自然を愛した作家である。彼の優れた観察力と分析力はもちろんきのこの世界にも発揮された。きのこは虫のように完全な形を保存することができず、細部にわたる特徴や比較が難しいところから、ファ-ブルは水彩画に表した。しかしかって一度も絵の具を手にしたことはなかったので、独学をして遂にこのような独創的で素晴らしい作品を描きあげた。つまりファ-ブルとはこのような人であった。数年を費やして描かれた700枚近い水彩画は、精密さと優美さの宝庫であり、科学的文献として、また多くの情報が込められているとともに感受性を豊かにしてくれるものである。Harmas と呼ばれたファ-ブルの家は、今では国立自然史博物館の管理の下に、彼の思い出の地でアルマス博物館となっている。プロヴァンス語の詩人フレデリック・ミストラルは、これら700枚の水彩画全部を自分の博物館に所有したいと申し出たが、アルマスではこの貴重な図版や《虫を愛した人》に関わる全てを大事に保存することにした。この敬愛すべき作品は、今迄アルマスを訪れたフランス人はもちろんのこと、多くの日本人、ロシア人、アメリカ人などにしか知られていなかった。科学的でまた同時に芸術的でもある、このわれわれの遺産の一つが、すべての人々の目に触れられるには、この稀有の作品の真髄ともいう221枚のきのこの図版を大々的に紹介しなければならなかった。こうした趣旨を実現するために専門家のチームが結成されたのである。
各図版はそれぞれ専門家によって検討され、誰にでも分かるように簡単な説明文とともに紹介されている。主題の図版に先立ち、ファ-ブルと彼の作品を紹介するために次の三つの解説文が掲載されている。最初は、ファ-ブルの人間として、自然の語り手として、また情熱を注いだ対象などが書かれている。次は、ファ-ブルが歩んださまざまな苦難の人生が、段階を追って明らかにされ、プロヴァンス地方の昆虫学者、教育者、音楽家、プロヴァンス語再興の詩人、哲学者として、彼の作品がどのような過程で生み出されたのかが記されている。最後はファ-ブルの才能の中でもっとも知られざる面である、菌学者として彼が描いたきのこの水彩画である。
これらの文章全般からは、ファ-ブルの豊かな感性がうかがわれる。自然の不思議に感動し、尽きることのない情熱、正確さと一徹さ、稀にみる鋭い観察力、ほんのつまらない虫にさえ愛情と理解を示したり、彼の故郷であるプロヴァンスのために身を捧げ、言葉を大事に選んで話しをする人であり、また自在に形や色を使いこなせる画家でもあった。
文学者や科学者であるばかりでなく、彼はまた、人々がかくありたいとする模範的な人でもあった。厳格なまでの正直さと正確さ、温かい人柄が忍ばれる文章、自然へ寄せる親愛の情、自分の発見した喜びを他と共有したいという願望が彼に文章を書かせた。こういった能力は人々を魅了し、いかに自然が完全で不思議であるかを私達に教えてくれた。自然の探究者ジャン・アンリ・ファーブルは、私達を取り巻く多様で驚嘆すべき小さな虫の世界や、牧場や森に束の間の奇跡として発生するきのこの環境が永続できるには、この美しくて完全な自然をどのように保護していかなければならないかを、今私達に自覚させてくた。この本が読者に、ファ-ブルのプロヴァンスであるアルマスに、《セリニャンの師》の足跡を見いだしたいと出向かせたり、昆虫記を再読することによって、偉大な人をもっとよく知るきっかけとなるならば幸いである。
クロ-ド・コサネル
【欄外】1.Citadelles 出版社はこの本の出版に当たり、アルマス博物館の修理費用に充当するため、著作権使用料を国立自然史博物館に還元できたことを幸せに思う。
60才のジャン・アンリ・ファ-ブル、Delagrave 出版社、1914 年、ルグロ著、「ファ-ブルの人生」から引用。
現代の英雄ジャン・アンリ・ファ-ブル
詩人ミストラルが生まれる数年前、ルエルグ地方の小さな村、湧き水のかすかな音やツグミ、猪が訪れる静かなサン・レオンスにジャン・アンリ・ファ-ブルは生まれた。7才になったとき、小さな農業をしていた両親は彼を学校に入れた。学校とはいっても、鶏や子ぶたの数が生徒より多いといった所である。やがてこの少年は県庁のあるロデーズの学校に入り、そこで古代ローマの詩人ウェルギリウスを知る。しかし生活はますます苦しくなり、ギリシャ神話や詩を学ぶ代りに働かなければならなかった。あちこちと不安定で些細な仕事を求めて歩く道すがら、幼いころから友達であった、カブトムシやコガネムシのことは頭から離れることはなく、かなりのちになってアヴィニョン近郊を探索したときも、いつも一緒にいたのはこれらの虫であった。優れた知性、一徹さ、ラテン語や学問に秀でた才能のお蔭で、彼はカルパントラ市の小学校の教員になることができた。ファ-ブルの表現を借りれば《藁の未亡人になった椅子》しかないこの学校で、腕白小僧に教えながら自らも学んでいった。
1844年、同じく教員のマリ・ヴィラールに出会うまでは、草や虫、石などがファ-ブルを夢中にさせたものであった。やがて子供が生まれたが、その子はほどなく亡くなっている。自然はかくも旺盛な繁殖力を多方面に示しているのに、初めての子供の喪、初めて死を身近に経験したことで、人生はかくも無慈悲で略奪的であるかを、この若さで知らねばならなかった。
やっと極貧のここの職から免れて、コルシカ島のアジャクシオのリセに空席を見つけることができた。1849年、この地に赴任したファ-ブルは、花崗岩の山々の稜線に陶然とし、彼を熱中させる動物や植物を見出した。またここでファ-ブルは、精神的家族ともいえる、植物学者のルキアンと出会い、高名な昆虫学者レオン・デュフールの著作に接している。デュフールが研究している Cerceris属【ツチスガリ属】のハチは、巣の中に輝く宝石のような獲物の甲虫目を、麻痺させたまま保存する習性があり、それがいたく彼を魅了した。ファ-ブルは蘭の研究と同時にデュフールの研究テーマであるツチスガリ蜂類にも没頭していった。やがてこの二つの研究論文によって、ファ-ブルの名は知られ始め、ダーウインをして《比類なき観察者》と言わしめた。
アヴィニョンに戻ったファ-ブルは、観察に必要な道具をロバとラバに乗せてヴァントゥ山に登った。その後、ヴィクトール・デュルイのお蔭で夜間の授業を受け持つことになった。それはいままで修道女に任されていた若い女子教育を、知識の向上をはかるために任されたものであった。そこではあらゆることが教材となり、中でも自然科学には多くの時間が費やされ、ファ-ブルの教育者としての天性の資質が、叙述や細部の語りに表われてきた。教室は多くの受講生でひしめきあい、生徒は修道院の少女ばかりでなく、詩人のフレデリック・ミストラルや、彼の友人で、ファ-ブルと植物採集にでかけたことのある有名な英国の経済学者であり哲学者のスチュアート・ミル、当時アヴィニョンで英語教師をしていた詩人のステファーヌ・マラルメなどであった。
【左】ベンジャマン・カリエールの絵、「ジャン・アンリ・ファ-ブルの生家」、1910年ころ、アヴェイロンのサン・レオンスにあるジャン・アンリ・ファ-ブル美術館。
【右上】若いジャン・アンリ・ファ-ブルが聖歌隊の少年だった「ロデーズの王立中学の礼拝堂」。画家トリスタン・リチャール。サンギュイヌ市、ルイ・リチャール氏のコレクション。
【右下】「カルパントラ」、1835年、ロウシュ氏によるボネの版画。ルマニーユ出版社の資料。
この成功の日々の後には再び艱難辛苦が待ち受けていた。教会の迷信深いおばあさん達は、植物の受精の秘密が暴露されることに我慢できず、ファ-ブルを危険人物で陰謀家で猥褻であると糾弾した。人々にショックを与えたと思われていることに逆にショックを受けたファ-ブルは、オランジュ市に引き篭り内省にふけった。このスキャンダルのあと、自然の美と神秘を一般に普及化することに情熱を傾け、1870年から1879年の間に、80冊に近い教科書を書いている。10,000ページにも及ぶこれらのテキストは、カルパントラ以来使い続けてきた小さな移動テーブルの上で書かれたものである。 1878年、「昆虫の思い出」【日本語訳は昆虫記】を書き始めたファ-ブルにとって、それ以上に重大だったのは、熱心な協力者であった息子のジュルの死であり、あまりもの悲しみの深さに彼自身も死ぬのではないかと思った。喪から作品へ、他の作家同様ファ-ブルも、書くことで不幸を昇華させ、昆虫学の思い出2巻目を書き上げて息子に献呈している。《あの世での復活を断固と信念する》ことは彼を強くしていった。この作品にはいかに自然が不当で貪欲か、昆虫の短くも輝かしい一生を通してあらゆる方面から書かれている。
画家 シャントロン(父)。「アヴィニョンの風景、1834年」。水彩画、アヴィニョン市、カルヴェ美術館。
画家 ジャン・フランソワ・ペラルディ。アジャクシヨの風景、1882年。アジャクシヨ、フェッシュ美術館。
セリニャン・デュ・コンタにあるファ-ブルの所有するアルマスの敷地内。[1992 Toshie GUEZ)
ずうっと以前からあまり町が好きではなかったファーブルは、このたび町を離れる決意をして、オランジュ市から数キロメートルの所にある《アザミや膜翅目の昆虫に最適な土地》セリニャンに居を構えた。それが彼の終生の住処アルマスである。耳をつんざくようなセミの鳴声に悩まされながらも、そこは彼にとって生きた研究室であり天国であった。ファ-ブルは、アルマスの孤独な生活の中で、素朴さと複雑さを併せもった性格のおもむくままに生きた。謙虚さと怒りっぽさ、傲慢さとユーモラスさ、ラブレー風の陽気で露骨な面と夢想家、燃えるような黒いひとみの生来の学者-芸術家、生涯自問し続けた思索家は《自分の死を観察する》ほどであった。
遅すぎたが栄誉はやってきた。1910年に50年間の研究の功績をたたえて表彰され、エドモン・ロスタン、ロマン・ローラン、メーテルリンクから賛辞を受けた。寄る年なみで肉体は衰え、読書もままならなくなってもまだ、人に創世記を読んでもらいながら、この夢想家の顔には預言者の冷静さが保たれていた。彼は自分の墓に《死は生の終焉ではなくもっと高度な世界への始まりである》と刻ましている。もしこの偉大な人物を格言的に言えば「決して恐れを知らなかった人である」。
例えば尊敬する師であるレオミュ-ルの研究の手直しや補足をすることを躊躇せず、生態環境や天敵を利用して防除する方法の先駆者となったり、観察のために虫メガネを持って茂みにしゃがんで何回も隣人を狼狽させたり、時間の経過や老齢を恐れなかった。64才でやもめになった時、20才の若い娘と結婚している。実に若さですら彼を恐れさせるものではなかった。二回の結婚で八人の子供をもうけたファ-ブルは、ごく若い協力者達を愛し、たとえば特定の虫には宝物である牛糞探しの遠征に彼らを送り出すことを好んだ。しかし嫌いなものもあった。それは愚鈍と騒音、動物実験ばかりの研究室、《嫌悪すべき政治屋》、唾棄すべきは 死後の世界や生の起源について、性急あるいは不用意な宣言をすることであった。
【左上】セリニャンに引越した当時のファ-ブル。最初の妻、子供たち、友人(ルグロの著作から転載)。
【右上】セリニャンの《名士》:ルイ・ シャラス、ファ-ブル、マリウス・ ギュイグ(ルグロの著作から転載)。
【中】1909年、彫刻家シカ-ルの前で自分の胸像のためにポーズをとるファ-ブル。アヴィニョンのル-ル宮殿古文書館所蔵。
【左下】1913年8月、チエリー大臣の訪問を待つファ-ブルと家族。アヴィニョンのルール宮殿古文書館所蔵。
【右下】アルマスを去るチエリー大臣アヴィニョンのルール宮殿古文書館所蔵。
昆虫記には全編を通じて、ファ-ブルが昆虫の生命活動とその秘密である交尾や産卵の瞬間に立ち会いたいという強い願望がいたるところに感じられる。しかし多くの虫が夜行性であり、この好奇心を満足させるのは非常に困難である。所有地アルマスに落ち着いたファ-ブルは、彼の地上の楽園を休みなく動き回って、そこにヒヤシンスやアマリリスといった花に加えて、危険性の少ないいくつかの《虫を捕獲する植物》を植えるつもりであった。晩年になってからもファ-ブルは、新しい方式を好んで試みた。それは培養基として1ダースくらいの死んだモグラを土に埋めて腐敗させ、幼虫の発生を促し、それを捕食する虫が群がっているのを見るのが好きであった。有名な生理学者のクロード・ベルナールの信奉者であるファ-ブルは、彼と同様、観察だけでなく必ず実験してみなければ満足できず、こうしてアルマスの生きた研究室の《腐敗場》で集められた虫のコレクションは、長い苦労の年月を代償とするものだった。
ラングドックサソリとナルボンヌコモリグモの決闘。この写真は息子のポール・ファ-ブルが Delagrave 版、
アンリ・ファ-ブルの作品「昆虫」のために写す。
これら10巻の昆虫の思い出【昆虫記】には、ファ-ブルが虫の生態に興味を向ける動機となったと思われるいくつかの子供のころの思い出があちこちに散見される。例えば子供のファ-ブルが、肉屋が隠し持ったほんの小さなナイフで牛の首筋を一突きして殺したり、蜘蛛の毒牙にかかったバッタが麻痺して身動きできないでいる場面などを目撃したことと関係があることは間違いない。肉屋の一突きで牛は肢を折って屈服した!ハチ類もその刺針で獲物の神経中枢を一撃できるのではないか?ジガバチは《解剖学に熟知した執刀医》だとファ-ブルが言っているように、どう見ても《外科手術においては昆虫は人間を上回っている》。進化論と突然変異説を強く否定するファ-ブルは、《昆虫はすでに最初から完全な本能を持って生まれている。虫は自分の息子に何の技法も伝達する必要はないが、人間はそうはいかない》と主張する。すでに選択の余地はない《あるジガバチにはコオロギが必要であり、別の種にはバッタ...がというように既に決められた食料以外は何も受けつけない》。
しかしファ-ブルは《昆虫心理学に関する断章》(昆虫記第二巻)に書いているように、ものごとを理想化する人ではない。誰もファ-ブルのように、昆虫記の《帰巣》の章にあるような、本能と知力の悲劇的な相違をうまく書いたことはない。虫にある種の記憶があることをファ-ブルは承認しているが、それはあくまでも既知の一つの行動の繰り返しには有効であるが、新しいできごとや未知のものには全く無力である。本能は型どおりのものにしか通用しない。知力は不意の困難や惨事に正面から対峙しようとする。《動物の心理》はさまざまであっても、問題を予測することができない点で限定される。昆虫には場所に対する本当の記憶はないようであり、人によって作為的に住む環境を変えられても、未知だということを知る能力がない。しかし、人間にはない一種の能力によってしばしば帰り道を見つけている。ファ-ブルは書いている《私は実験によって次のことをお見せしよう。この一種の能力がその範囲は狭いがどれほど繊細で正確であるか、また反対に通常の条件からはみ出すとどれほど偏狭で融通のきかないものであるか。これは本能にいつも見られる対立である》(1巻「帰巣」)。
果樹を食い荒らす昆虫。イラスト:ポール・メリー、ジャン・アンリ・ファ-ブルの作品「害虫」、1939年再版、Delagrave 版から。
雌ハナダカバチの場合を見てみよう。いろいろの仕掛けをして巣の入り口を塞いでみるが、いつもなんなく見つけ出す能力は驚嘆すべきものである。母親は幼虫を養うためになんとしてでも巣の中に入りたいが、もしこの戸を取り除くと、頑固にいつまでもなくなってしまった巣の入り口のあったところを探していた。母親にとって通り抜けのできない玄関は癒すことのできない心に受けたショックのようなものである。戸によって保護されていた幼虫は今や裸で《苦悶》し、《灼熱の太陽にさらされ、餌の噛みすてられたハエ類の山の上でのたうち回っている》が、母親には幼虫のところまでもう少し通路を堀り進めるといった考えはないようである。自分の子供ではないか!習慣に縛られ、限られた自分の記憶に頼り、不意のことには対応できない雌ハナダカバチには、いつもの門をみつけようと必至だが、それが見つからないので子供を認識できず、《母親からの何の助けも得られない子供は死にかかっている》。一連の出来事はすべて一定の順序でつながっており、たった一つでも欠けると全てが挫折する。昆虫に一生を捧げたファ-ブルは、賢人のように《知力と本能との間には何という深淵があることか!知力で行動する母親は瓦礫のなかを通ってまっすくに息子にたどりつくが、本能に導かれる母親はかつて門であったところに頑固にたたずんでいる。》さらに《われわれの論理は虫にとって非論理的である。昆虫は運命を無意識に甘受する。行動を選択することができない》、《未知の壁》の前の定めの悲劇である。
虫の本能に不思議な限界があるのは、人間にとっては知力の限界のようなものである。小説によれば、人間は一番優れた知力を有すると書かれているが、いつも無思慮な繰り返しと同じパターンの恋に陥り、わざわざ自らを窮地に追い込んでいるではないか。
しかしもし雌ジガバチが、時に自分の子供を見失うのが母性本能と呼ばれるものの欠如と言うならば、父性本能はほとんど昆虫にはないといえるだろう。《すべての雄が生殖に激しい情熱を示し、満足の時が過ぎれば、すぐに夫婦関係は終り、子供の将来は成り行きまかせで心配もせずにどこかへ行ってしまう》。またファ-ブルは昆虫と燕を比較しながら、燕は夫婦で協力して働くが、モンシロチョウのなまけ者の亭主には非難を浴びせている《働かないほんとうの理由は無能だからである。》しかしこのふしだらな世界にも、働き者の糞虫のセンチコガネのような多くの例外がある。ファ-ブルは優れた教師であり、子供の教育に熱心な父親で、自分のごく若いファン達を早熟な研究者に仕上げ、小さな Sisyphe(1)つまりアシナガタマオシコガネについて長いスペースを割いて記述している。この糞虫に Sisyphe とはうまい名前をつけたものだが、ギリシャ神話の悲劇の英雄とは違って、彼らは《陽気さと屈託のなさ》で険しい斜面を懸命に押し上げる。ファ-ブルはこの神話が気に入っている、それはいくらか自分の困難な人生、愛する息子のジュルの死、長年の貧窮生活に耐えた家族が《たった一つの罪、貧乏の罪をあがなう者》の物語に似ているからである。
糞(ヒジリ) の団子を梨形にこねている聖たまおしこがね。ポール・ファ-ブルの写真、「昆虫」から転用。
彼の野外実験室アルマスは《この地方ではイブキジャコウソウの茂るままに放置された石ころだらけの荒れ地をアルマスと呼ぶ》、手強い雑草のシバムギ、ヤグルマギク類、アザミ類などの生い茂った王国であり、膜翅目の天国である。ファ-ブルがこの土地を手にいれたのは、40年もの苦労ののち、夭逝した息子に献呈した昆虫記を書いている途中であった。このような背景からファ-ブルの作品には二つの傾向が窺われる。一つは美に対し喜びと驚きを表わし、もう一つは、いたるところで他の生命を噛みながら作動している死に対する深い認識である。詩人のミシュレは虫をほとんど親しい友とし《愛はかれらに羽をあたえた、素晴らしい虹色の光彩、炎さえ見られる...私生児に創意に富んだ保護が続くように、母性の驚くべ慧眼》という。ところが真の昆虫学者ファ-ブルは、正確に昆虫の残忍な習性を記述し続けた。虫にとって死はいつも隣り合わせにあり、他を殺しそして他に殺されるのが常である。自然界に寄生はつきものであり《生はそれ自体大規模な略奪である。自然は自分自身をむさぼり食い、一つの胃袋から他の胃袋を経ながら物質は命を長らえている。生き物の宴会ではそれぞれが次々に会食者であり、料理にされる。今日食う者は、明日食われる...すべては生きたものあるいは生きていたもので生きている寄生である》。(昆虫記3巻「寄生虫」)。
【1.訳者註-(ギリシャ神話)コリントスの王シシュフォス、アイオロスの子、地獄で山頂に上げてもすぐ落ちてくる岩を永遠に転がし上げ続けるという刑罰を科された。】
昆虫の《小説家》が人間の風習を書く小説家に合流したことで、ファ-ブルの大作家としての才能が浮び上がってきた。そもそも多くの作家は他人を食いものにするヴァンピリズムを好んで小説のテーマにするが、中でもヘンリー・ジェームスは、相手の若さか、もしそれがなければ美貌やお金を利用する人間、あるいは秘密の保持に万全を期すといったもつれた人間関係の糸を解きほぐす名人ではないだろうか。愛もしばしば完全無欠な寄生の一種ではないかと思う。昆虫界ではこの愛は他の生を奪うまでにいたる。《人間こそ偉大な寄生者であり、食べられる物ならなんでも強欲に独占したがる》とファ-ブルは結んでいる。これは悲観論ではなく、偏見のない現実主義である。ファ-ブルはしばしば人間を虫と比較することはあっても、ラ・フォンテーヌやグランヴィルと違って、虫を擬人化することはない。
キンイロオサムシがご馳走のマツノコフキコガネを食べているところ。ポール・ファ-ブルの写真、「昆虫」から。
見ること、知ること、それは生の根源を理解し解明することである。ファ-ブルを魅了するのは起源であり、それは生き続けるための苦しい闘争である。《幼虫は白っぽくて裸、それに盲目といえば地下生活の常で、その姿は槍の先のようであり少々オサムシを思わせる。黒い顎は強靭で優れた解剖用の挟みである...》とファ-ブルは甲虫目の幼虫について書いている(昆虫記6巻「モンシデムシ」)。幼虫はすでにまばゆいばかりに武装しているが、しかしまだ自立にはいたらず、成虫になる前のこの最初の段階から、さなぎへと変身していくための準備期間には目を見張るものがある。《産着に包み込まれたミイラのような幼虫は、不動のまま蘇生するのを待っている。柔らかい肉はほとんど液体に近く、両脇から延びた水晶のように透明な四肢は不動のままで、ほんの僅かの動きさえも、このえも言われぬ繊細な仕事に支障をきたすことを恐れるかのようである。このような幼虫が、われわれの知っている昆虫に変身するという不思議が、ファ-ブルの好奇心をいたく刺激したことは確かである。
昆虫界の死を含む生の情熱と変身の不思議は、人間の本質的な悲劇そのものであり、それが虫に取りつかれた作家に、隠喩と象徴のインスピレーションを与えた。虫には二つの生があるようだ。一つは幼虫として暗闇の中での長い準備期間、次は成虫へと驀進し飛翔する束の間の命、死の嵐の前の一閃の時である。このあまりにも異なる二つの生は、同じ生物であるとは思えないが、人間の子供と大人ほどに、蛹と成虫の境界は見かけだけのものである。ミシュレは「虫」の中で《私は何回も幼虫から蛹へと変身した》と告白している。
ファ-ブルを熱中させた「生の起源と束の間の栄光の頂点」という考えは彼を哲学者にする。隔世遺伝に興味を持ちながら多くの問題に答が出せないことを彼自身認めている。《遺伝という言葉の裏のなんという暗闇!...生命の根源の秘密を説明しようなどと思い上がらないで、野心は観察できる範囲に留めておこう。》(6巻「隔世遺伝」)。昆虫に寄せるこの情熱が一体どこから来たのか、その謎がファ-ブルに自分を語らせている。ルエルグ地方で執行吏をしていた母方の祖父を彼は知らない。祖母についてはさらに《サラダ菜に青虫を見つけると思わず飛び上り殺してしまう》くらいしか知らない。しかし父方の祖父母は良く知っている。彼らは土地を耕し、牛と羊の飼育には詳しかった。もし彼らの孫が虫に一生を費やすことを知ったら大騒ぎをしたことだろう。父は《家系中で町にあこがれる一番手であった。それがかえって仇となった。...不運に付きまとわれ続けた》。
そんな訳で母方の祖父母に預けられたファ-ブルは、バッタの「きりきり」という鳴き声や、じゃがいもの花が紫色だということを発見した。学校では壁に掛かった「さ迷うユダヤ人」と「ジュヌヴィエヴ・ドゥ・ブラバンと凶悪なゴロ」の色つきの絵に見とれていた。生徒はアルファベットの本を眺めて「瞑想」していなければならないが、《われわれの瞑想は、しょっちゅう何かに邪魔されてうまくいかなかった。それは、大鍋のじゃがいもを失敬したり、ビー玉のことで仲間と喧嘩したり、子豚はぶうぶうと侵入してくるし、ひよこの訪問》といったことなどであった。ファ-ブルの先生は床屋で、牧師や村長や公証人といった村の《名士》の髭を剃っていたが、さらに教会の鐘を撞き、聖歌隊の歌い手でもあった。つまりなんでも屋である。
復元されたファ-ブルの生家の台所。サン・レオン・デュ・レヴズ村にあるマリー・ガルヴァダによって創設されたファ-ブル博物館。
され髑髏のスフィンクス【アフリカメンガタスズメ】。
ローゼン・フォン・ローゼンホフの「Divertissements entomologiques」から、1740-1761年。
遺伝でも環境からでもないとしたら、一体ファ-ブルの虫に対する情熱はどこからきたのだろうか。ファ-ブルが野外学級に学んだということだけでもかなりの説明がつくと思う。彼が気に入った最初の絵はABCの表紙の鳩であり、次は彼が7才の時父親が町から買ってきた《6リヤール銅貨ほどの絵で、そこにはアルファベットを教えるために、あらゆる種類の動物がその頭文字と共に描かれていた》。これで決まった!、動物界は未来の昆虫学者を確保したことになる。これらの絵が彼の気に入った理由は、隔世遺伝か本能かあるいは突然変異か本当のところは分からない。われわれでもこの人生で何がしたいかを見つけることはできても、それが何に由来するかを知ることはできない(自分の起源を求めて多くの作家が未知の壁にぶっつかっている)。
昆虫記にはいたるところに、小さな虫の生を通じて、ファ-ブルの思い出が葉っぱの裏や石を剥ぐると飛び出してくる玉虫色の甲虫のように見受けられる。彼は謙虚さと具体的なものを好み、目で見たものしか信用せず、抽象的な推測にまかせるようなことは決してなかった。このような厳しい見方が、明晰さと切り放すことのできない謙虚さを、彼に自覚させたのではなかろうか。ファ-ブルはジェームス同様、人間は《何事においても完全を知ることはできない》と認めている。何故ある種の蝶の雌は、オオクジャクガの雌のように雄を引きつけないのだろうか。同じ外観の近種どうしであっても《器官が能力の有無を決定しない。ある種はその能力を備え、別の種はそうではない》のは何故かとファ-ブルは自問している。昆虫は多くの謎を秘めているところから、ミシュレは《闇の子》と呼んだ。同じくポール・ヴァレリーは貝殻について思考し《われわれは器官については多くのことを知っているが、生の機能についてはほとんど知らない...自分ができることしか理解できない。》と書き《石灰質で、からっぽで、螺旋形のこの小さな物体は多くの省察を要するが、どれも解答を得ることはできないものばかりである...》と結んでいる。キンイロハナムグリの甲皮や巻き貝のように生命を保護していた名残りを見ると、私達も同じように考える。この謎を受け入れながら真実を求め続けるファ-ブルは、ラ・フォンテーヌの面白い寓話「せみとあり」に憤慨した。この寓話は先見の明があるアリを捧げるために、軽薄な一匹のセミが犠牲にされた話である(5巻「蝉と蟻の寓話」)。この事実に反する評価を粉砕するのを使命と考えたファ-ブルは、擁護者として、寛大な蝉への賛歌を数ページにわたって書いている《蟻は貪欲な搾取者であり、貯蔵庫には食べられるものなら何でもしまい込んでいる》。《7月、午後の蒸し暑い時間に、喉が渇いてへとへとになった平民の虫どもが、枯れた花の上で渇きをいやそうと無駄骨を折っているとき、蝉はかれらの渇きを気にも留めなかった。細いねじれ錐のような口吻で、汲めども尽きない酒蔵のたるの一つに孔をあけた...固くて滑らかな樹皮は太陽が成熟させた樹液で膨らんでいる》。しかし蝉が樹皮まで吸い上げた蜜を、ほかの虫が盗もうとしたが、とりわけ蟻は執拗であった。そのしばらく後、子供を地下に避難させるとまもなく蝉は死んでしまった。そのとき蟻は駆けつけて、蝉を切り裂きむさぼり食った。蝉は蜜を盗まれ、自分まで食われてしまったのである。これが悲しいかな現実の姿であり、地に落ちた蝉の名誉は、ファ-ブルによって回復された。しかしながらファ-ブルは、しつこく甲高い蝉の鳴声には、夜鳴きナイチンゲールのトリル同様辟易していた。彼の観察には静寂が必要であった。なによりもまずファ-ブルは、慎重さと客観性を重視した。《学説を立てるなぞはあまり私の性分ではない。私はそれらに不信を抱いており、疑わしい前提で、あいまいな議論をすることもやはり私の気に入らない。私は観察をして確かめたあとは、事実に任せるだけである。》。《本能は持って生れた能力であるのか、あるいは後天的なものなのか、今度は各自が決めることである。》(3巻「危険な食物」)。
イーヴ・ドゥランジュが彼のエッセーのなかで強調しているように、ファ-ブルは第一に独学者であり、現実主義者であって体系の構築者ではない。彼は喜んで聖・トーマスと自分とを比較している《聖・トーマスの不屈の弟子である私は、承諾と言う前に、一度ばかりではなく、二度、三度いや何回でも、私の疑念が証拠の重みに屈服する迄、自分で見てそして触って確かめてみたいのだ。(7巻「クビナガハムシ」)。
ファ-ブルは研究中に何回も、自然によって与えられたプログラムの中に異常や弱点があり、昆虫はよく偽物に騙されやすいことを確認している。たとえば残忍なナルボンヌコモリグモは 《愚か》 なので簡単に騙すことができる。彼女が作った産卵用の小嚢の代わりに、ファ-ブルはアカオニグモの作品を置いた。この《愚か者》は自分のものかどうかの区別もできず、孵化の時期になってやっと自分が騙されたことに気がつくのである。彼女はその袋を見捨てた。クモの知恵を欺くのは難しくないが、ファ-ブルは《ナルボンヌコモリグモの馬鹿さ加減には面食らう》と認めている。(8巻「ナルボンヌコモリグモ」)。
堂々と張りめぐらされたコガネグモの幾何学的で薄い張り網の中心には、クモとつながっている一本の紐がある。もし獲物が掛かったら、網の振動だけでは十分ではなく、紐が《警報機》の役割をする。もしこの紐を切るとクモは知らずにいつまでも獲物を待っている(9巻「オニグモ属。電信線」)。こうしてファ-ブルは、虫における厳密なプログラムを信頼しながらも、どこかにその欠陥を発見して、すべての謎が解明できないことを知っている。昆虫学者は彼自身一匹の虫であり、死がむき出しになるまで真実をかじっていくのである。
ファ-ブルを熱中させたもう一つのテーマは、彼が「性別による食料の割当」(3巻)の章で素晴らしい分析をしているように、昆虫界における母権の強大さである(このテーマは多くの小説家に、男女の役割を逆にした強い女と、女の食い物になるのが幸福あるいは不幸な男の話を書かせている)。《それは母親である、母親だけが苦労して地下の坑道や小部屋を掘る、土と唾液をこねて小部屋の壁を塗る、セメントと砂利で住居を積み上げる、木に穴を開けて通路をいくつかの階に仕切る、円く切った葉を合せて蜜壷を作り、松が傷口から流す涙の樹脂を集めてかたつむりの空き家に天井を築く、獲物を捕らえ、麻痺させて家まで引っ張って帰る...この大変な骨折り仕事には、強力な肉体が必要なのは明らかであるが、恋にうつつをぬかしている雄にはまったく不必要なものである》。虫の世界は、しばしばコレットの小説に見られるごとく、雄は受精用の恋人であり、雌は仕事と生存の責任者である。
プルーストについてはよく知られていることだが、彼の作品はほとんど残酷さの研究書である。ファ-ブルが昆虫における残虐行為の素晴らしい分析家であるのは確かである。プルーストが自分の小説の中で、台所女中に対し心理的虐待をするフランソワーズという女性の人物描写をしているが、そこには最初からファ-ブルを参考として引用している《膜翅目の土掘り蜂の母親に見られるように、自分が死んだのちも、新鮮な肉を子供が食べられるように、解剖学の知識を呼び起こし、ゾウムシやクモを捕らえると、肢の動きを司っている神経中枢に見事に針を突き刺すのは、他の生命活動に支障がないように麻痺させるためであり...やがて幼虫が孵化すると、おとなしくて無害な獲物の餌を...と同じように、フランソワーズはしばしばこの女中にアスパラガスの下拵えをさせたのは、彼女がこの剥いた皮で、激しいぜん息発作を起こすことを知っていたからである》。
昆虫にとっては本能であるが、プルーストの登場人物のは悪知恵である。またシャルリュスとジュピアンの出会いも、蘭とマルハナバチの関係のように、自然の摂理によって決められたことである。プルーストの花粉を記述した箇所は忘れることができない。花から花へ立ちこめる薄い雲のような花粉は神秘に震えている。彼は画家のエルスチルにこれを描かせたかったという。ファ-ブル、プルースト、ミシュレ、といった作家の誰もが、目に見えない精気の循環、仕掛けられた罠、反乱の企て、闇の中の小さな殺戮などの、自然の中で見過ごされてしまうような些細な行為に、いつも引きつけられる。ファ-ブルは犠牲者の弱点や、使用される武器にきわめて大きな関心を示した。彼が記述する虫の武器の語彙は、昆虫学者や陰の犯罪を専門とする詩人を喜ばせた。やっとこ、のこ、串、圧延機、はさみ、刺針、針、毒鈎、牙、フックなどを駆使してまたたく間に殺人をやってのける。《夜になるとあたりは静寂と休息に包まれるが、時にはこの休息が破られることがある。プラタナスのこんもりした繁みのどこかで、突然、鋭く、短い恐怖の叫びが上がる。これは安らぎの不意を突かれた蝉の必死の悲鳴であり、マンシュウヤブキリが蝉の腹を切り裂いて中を漁っていた》。残酷さは再びファ-ブルの毛虫《殺し》の中で記述されている。《怪物の背中にしがみついた蜂は、腹部を曲げ、まるで自分の患者の人体内部を知り尽くしている外科医のように、整然としかもあわてることなく腹面からメスを入れ...》
【上】向き合ったマンシュウヤブキリの夫婦が触角を擦り合せている。
【下】アオヤブキリが蝉をむさぼり食っている。写真:ポール・ファ-ブル,「昆虫」から。
特にファ-ブルの注意を喚起したのは、獲物をいかに麻痺させるかであった。《ジガバチの物語全体を支配しているのは、母虫が幼虫の安全のために、いかに獲物を無害な状態で保存しうるのか、その方法に大きな関心があった。》(一巻「ジガバチ」)。
ファ-ブルは、殺戮者カマキリノの動向について素晴らしい記述をしている。《お祈りを唱えている様子の裏には残忍性が秘められている》(5巻「カマキリ、狩猟」)。したがって昆虫学者は、同時に人生の非情さを自覚しているモラリストでもある。昆虫の研究は謎、はかなさ、暗闇界、生と死の不変の循環といった感覚を鋭くする。昆虫学者のファ-ブルは、緻密なメスの正確さと現象の解釈、あるいは本能の限界と変身の謎を共有することで、隠された生命の循環を書く小説家、顕微鏡による占い師、果てしなく続く殺戮の忍耐強い証人である。昆虫界は、囮、毒液、完全犯罪すらもくろみ、しばしばヒッチコックの映画のように、犠牲者はあっけなく食人鬼に飲み込まれて消えてしまう。どれだけ雄を飲み込んだり齧ったりしたことか、どれだけの母親が、アヅチグモの母親のように子供の下で衰え死んでいったことか。この不道徳な昆虫本来の残酷さは、ファ-ブルにオサムシの死について、素晴らしい記述をさせている。ガラスの覆いの中に一つがいのオサムシを入れて一晩放置すると、翌朝、雄は元気な様子に見える。近付いてよく見ると、誇り高く立ってはいるものの、すでに玉虫色の昆虫はもぬけの殻であった。しかし昆虫記の中で一番残酷なのはツチハンミョウ類の恋の記述であろう(3巻)。《雄は腹部をできるだけ伸ばして、雌の腹部を激しく打ちつける...これは熱狂的な洗濯べらの集中攻撃である。雄は狂ったように受刑者の首を鞭打っている》。その間《求婚された雌》は自分の葉っぱをかじっている。とうとう雌は受け入れ、20時間くらいの交尾の後、雄は雌に引きずられながらしおれた葉っぱのように疲れ切っていた。
ジャック・ラカリエールは、動物の世界にうまく入り込み、彼の作品「樹皮の下の世界」で、バッタの目は裏箔のない鏡のようで、そこに自分の姿を写し出されるのは恐ろしいと書いている。彼もファ-ブル同様 《この生殖のサイクル、この疲れを知らぬ産卵、この赤ちゃん製造工場、この果ての無いかゆ、ゼリー、精子、粘液の放出...》 とすさまじい生命力の記述をしている。ファ-ブルは虫が殺意の混じる凶暴さを持っているのを認めている。《カマキリの雌は役目の終った恋人をむさぼり食い、カラフトギスの母親は不具になった夫の肢をかじり、産卵を地中で終えたお人好しのコオロギは、悲劇的な夫婦喧嘩を始め、それはまったくためらいもなくおたがいの腹を裂き合うまで続けられる。子供の世話が終ると、生の喜びも終るのだ》。
ああ、何と矛盾する昆虫の本能よ!この本能は、ファ-ブルのように優れた鑑識眼がないと見ることはできない。ジァン・ロスタンによれば、ダーウインは純真無垢な蘭に恋をして《私はほとんど頭がおかしくなってしまった...まだどんな虫も訪れていない若い花に、尖った先を差し込むとどうなるのかをルーペで監視するのは実に壮麗なことである》。それはフィリップ・ゴスが呼ぶところの《覗きの快楽》、あるいはロスタンの 《小さな生き物の私生活への侵犯の快楽》 である。しかしファ-ブルにとって観察とは、孤独であり、待つことであり、静寂を希求することであり、きわめて小さな世界に対しほとんど神秘的ともいえる注意を払うことである。昆虫記の「ヴァントウー登山」とファ-ブルの所有地「アルマス」の章を読んでみよう。そこにはファ-ブルの観察が、ほとんど束の間の生命が、秘に次の生命を準備している昆虫の隠れた生命活動に対する霊的追及にまで至っているのに気がつかれるであろう。
ミツカドセンチコガネの観察装置の前に立つファ-ブル、「昆虫記」、1870年-1889年、Delagrave 版。
Scarabée crassipède 【太足たまおしこがね】オリヴィエ著、
「昆虫学あるいは甲虫目の昆虫の自然史」1789年 、パリ、国立自然史博物館。
自然科学者も作家同様、生の不思議に立ち会うには、塀で隔てられた静かな場所が必要である。ミシュレーも書いているが、自然科学者は《人間社会と時間のらち外にいなければならない》。ファ-ブルはアルマスを塀で囲み、プル-ストは防音のために自分の個室にコルクを張り巡らした。メーテルリンクの愛読者であったプルーストは「失われた時を求めて」の作中人物を選んでいる際に、音楽家ヴァントゥユを決めるに先立って、彼に鉱石のコレクションをくれた《有名な自然科学者》のヴィントンを想定していた。フィリップ・ゴスはプルーストの作品について書いている《何と黙視への歓喜に満ちみちていることか》。ファ-ブルにあってはこの黙視は強烈な神秘的恍惚にまでいたる。ジョン・ロスタンが言うところの《 ファ-ブルの啓示 》には二重の意味がある。将来の生物学者である若い読者のロスタンが、昆虫記の中で聖タマオシコガネの記述に出会ったことと、ファ-ブルが多くの観察経験ののち、昆虫やラバやひつじの《作品》である糞を、団子にして堆積するという不可思議な行動との関連性を、やっと見つけた偉大なる瞬間である。トーマス・ハーディーは彼の作品の中で、遺伝による荒廃、そしてプルーストは「失われた...」で、神聖さと冒涜の必要性といった残酷な関係を取り上げている。同じくファ-ブルも、聖タマオシコガネの見事な研究によって、昆虫界の舞台裏で展開される対立する微小な空間を記述する比類なき詩人になった。
息子のジァン・ロスタンの引用によると、エドモン・ロスタンは、ファ-ブルの驚嘆すべきこの集中力こそが、科学であれ文学であれ、創造と発見をもたらす必須の条件であると覚書に書いている。さらに、
《アンリ・ファ-ブル。英雄。固定観念。敷地に塀を築いたことでファ-ブルは現代の英雄である。彼は自分の見方ですべてを見た。これは稀なことであり、これが私の気に入った。天職、伝言。自分自身の世界を、自分自身の力で生きる...
《処世訓。散漫になるな:ファ-ブルやミストラルを見よ。
《神様になって、一握りの虫を眺めて見ようではないか...
《ファ-ブルはあらゆることに偉大であった。何も彼の目をくらませることはできなかった。誰も自分の仕事を断念すべきではない》。
「処世訓」が重要なのは、そこから豊かな見方が生れるからである。実にファ-ブルは正確さを尊び、われわれが言うところの《気晴らし》を嫌い、この正確さは適格な言葉を見つけることで歓喜に達する。
従ってファ-ブルにとって愛とは、プルースト同様、単に官能の語彙であって、無意味な分類上の問題ではなく、人間、動物、植物、昆虫、雄雌を問わず、個のオリジナリティを尊重するためである。ファ-ブルは子供の頃から適格な言葉を見つけることに大きな喜びを感じていた。10巻の「幼年時代の思い出」には、俗名で Vesse-de-loup 「狼のすかしっぺ」と呼ばれているキノコが Lycoperdon【ホコリタケ】という学名であるのを知った時の喜びが書かれている。それはまた、ノビタキの学名 Saxicole(岩場の鳥、石ころ斜面の友)が単に motteux (土ほじり、ハシグロヒタキ)であることを知った時も同じ喜びであった。
哲学者、昆虫学者、心理学者で詩人でもあるファ-ブルは根源を追及していく。ポール・ヴァレリーは花で溢れた墓地を見て《天の恵みは花にまで行き渡る》と書いているが、ファ-ブルは美しい墓地よりも、死んだ動物の代弁者であった。たとえば、生ごみと化した鍬切れのモグラは、玉虫色に輝く群れを引き付け、ヒラタシデムシ、小走り族のツヤエンマムシ、《熱狂的な盗賊団》の蟻、腹に粉雪をつけたカツオブシムシなどが駆けつけ《春、死骸のモグラの下のなんたる見世物よ!》ファ-ブルの文章は、甲虫目の虫のように豊かに彩られ、喪の場面は、漆黒の甲皮のツヤエンマムシ(動物の死骸を地中に埋め、それに産卵する)と同じくらい暗く書かれている。また彼の素晴らしいモンシデムシの記述には、この《勇敢な墓堀り》はほどんど鈍重ともいえる堅苦しい様子をしているが《しかし彼はすべての腐敗物をサイロに貯蓄することを心得ていた》。
ファ-ブルの記述は、昆虫の色、音、形、そして彼の文体がうまく調和を保って五感の化身となり、自然の尽きない豊さが表現されている。しばしば文章は長く、バロック調で、密度が高く、途中で不意に短く、簡潔に《たった一塊の牛糞のために何たる形而上的考察!》となる。
ファ-ブルは、人間と動物の生態を取り違えている人達を少しからかってさえいる。しかしそうは言っても彼は、昆虫の名称はほんの僅かし用いず、しばしば《根の尽きた》、《カネの亡者》、《死体の解体者》とか《抱き合った》、《渇望者》、《外科医》、クロト蜘蛛は《闇の友》、ナルボンヌの毒蜘蛛は《軽業師》などの《ヒト類》の形容詞を使って記述している。《道化師の腰の柔軟さや力強さをもってしても、生れたてのまだほとんど粘液も固っていないようなこの肉にはとうていかなわない。》とファ-ブルは「シデムシの幼虫」で書いている。ではツチボタルについてどう記述をしているのだろうか《つまりホタルとは胴切りの新型の足無しである。尻につけた白いすてきなバラは、一種の手肢であり、関節のない12本の指はあらゆる方向に動き、管状の指は掴むことはできないが、鳥もちのようにねばねばしている。(10巻「つちぼたる」)
ファ-ブルはこれらの昆虫を、あらゆる面相や形態、触角や時には兜といった装飾的突起物、全翅、太陽と夜と青銅と水が混ざり合ってできた、豪華な日本の鎧を思わせる輝く美しい色調の甲皮などによって、魅力ある登場人物に仕立てている。
さらに詩心のある人は、せんさく好きのカタビロオサムシ、胴鎧のヒラタシデムシ、蟻のらっぱ吹き、埋葬モリム、機織の女怪物、心痛のトホシカミキリ、ヘラクレスカブトムシ、貧弱クシヒゲカマキリ、こん棒を持った牛頭怪物...といった虫の名前を聞いただけで、たちまち想像の世界が広がっていく。
【左上】1909年、甥によって一つにまとめられたファ-ブルのフランス語とプロヴァンス語の詩、Delagrave 版。アヴィニョン市立図書館所蔵。
【右上】ファ-ブルの詩「ロバの十字架」。イーヴ・ドゥランジュ氏所有。
【下】ファ-ブルが作曲した音楽の譜面。イーヴ・ドゥランジュ氏所有。
ファ-ブルは色と形にとても敏感であり、素晴らしいキノコの水彩画がに見られるように、優れた画家である。幼虫の世界の色の無さとは対象的に、豊かな色彩の鳥の羽の記述は彼には大きな喜びであった。《ホオジロが彼らの卵の上に難解で解読不可能なことを書いている。それは多くの線と染みが混ざりあった大理石模様である。ツグミ、カラスは、青緑の地にあちこち褐色の跳ねをとばしている。ダイシャクシギとカモメは、大きな斑点のヒョウの毛並をまねた》。
色と形が競い合っているキノコやランをファ-ブルがこれほど好んだのも無理はない。ありふれた一箱の絵の具から生れたこれらの素晴らしい水彩画が、ミストラルに売られることなく、アルマスに保存されていたことは全くの幸運であった。謙虚さはいつものことながら、ファ-ブルはこれらの小さな傑作に単に《菌類の水彩画》と題しているだけである。子供の頃からキノコは《植物学の最高の喜び》であった。キノコは、学者としてはその謎が、また画家としては色の変化が彼を引きつけたものである。《長く空気にさらすと、青変するイグチ類の中でも特に注目されるのは、アイゾメイグチであるが、本当のインディゴのしるしとなるはずであった固定した藍色は保存されずに褪色してしまう...おそらくこの黒い色の原因は蛆が青変するイグチを溶かしたからであろう。》(10巻「昆虫とキノコ」)
また、暗闇で光を放つ《オリーヴの木のヒラタケ》【Omphalotus olearius、図版163を参照】の絵画的な記述には感動せずにはいられない《それは蛍のように白くて柔らかな光りたたえて、婚礼と胞子の放出を祝って美しく輝いていた》。過ぎし時を留めておきたいという作家や画家の懸念は、キノコの美しさも幼虫のように変化するものであり、またその生命は極めて短いことから、絵に残しておきたいと思わせた。美しさをそのまま定着させるには、繊細で正確な絵を描かなければならなかった。
ファ-ブルは、素朴な自然の美しさとほとんど同じくらい、子供の頃に読んだギリシャ神話の世界から多大な影響を受けている。ミノスの迷宮路、ネッソスの上着、アリアドネの糸、などの伝説は昆虫の生活にありありと具現されている。アルマスは彼の実験室というだけではなく、年ごとに集められた、冬期の虫の生態観察の集大成の場所でもある。
ファ-ブルにとって学者としての生活は、人間としての生活同様、季節のリズムに従わなければならなかった。エドモン・ロスタンはファ-ブルにつぎの14行詩を献呈している。
《素晴らしい人生よ
誰も彼ほど母性という粘土に近づいたものはいない
リラの森は福音書の代わりとなる
彼はファ-ブル・デグランテイーヌの末裔かも知れぬ
たった一度聞いた声を一日中探し求め
退屈知らずはウエルギウスをそらで唱える
華奢であるが光り輝く虫を見つけたならば
それには亡くした息子の名前をつけよう
夜、獲物を手に家路に着くと
真実はおそらく彼の緑の箱の中にあるだろう
虫の井戸の底からそれは浮び上がってくる
素朴で、悲しく、喜びに満ちた、これが彼の人生である
自然科学者の帽子を彼は生涯脱がなかった
そして彼の本は彼の人生の歩みそのものである》
「虫のファ-ブル」、14行詩2.(羽の詩篇)。
さらに、ファ-ブルは音楽家でもあり、誰もそれを意外だとは思わないだろう。まさに音楽とは変身と変化性の世界であり、リズムとテーマは季節のように巡り、メロディーは鳥の滑らかな歌声のように次から次へと響き、静寂は真実の重みとなる。実験室となったアルマスで蘇ったファ-ブルは、すべてに心を開き、足踏みオルガンで、蝉の鳴声やトカゲのぶつぶつさえも交えて音楽を作曲した。68才のファ-ブルは、二番目の結婚で生れた幼い子供たちの心が、動物界とハーモニの世界とを調和させることを望んだ。これらのうっとりするプロヴァンスの調べは、水彩画同様、地上の生を喰んで生きる地下の世界の気懸りからファ-ブルを遠ざけたのは確かである。これほど想像を刺激する領域も少なく、殺し殺されるといった両面性をもってはいるが、動物界で確認された種の を占めるのは昆虫達である!昆虫は潜り込み、繁殖し、かみ砕き、刺し、吸い、なめる。また彼らは坑道を堀り、穴をあけ、かじり、そして殺す時は、かたずけると言う。
甲殻とざわめきの世界に比べると、地上に表われた植物はなんという安らぎであろうか、針で刺すことも交尾後の殺戮もなく、ビロード感触のキノコの特性は静寂である!
DIANE DE MARGERIE
ディアンヌ・ドゥ・マルジュリー
【写真】ファ-ブルのフェリーブル帽子(プロヴァンス語再興論者)、アルマス博物館。
ファ-ブルの科学的業績とその道のり
ファ-ブルの科学的業績は連続した歩みの中で培われたものであり、分散した断片だけを取り上げて紹介することはできない。これらの素晴らしい菌学の研究は、博識家としての彼の一面である。全作品を理解するためには、人生の折々に彼が考えたことをそのまま知ることである。
昆虫記はその文体によって、フランス学士院から表彰され、また多くの作家にも賞賛された高度な文学作品である。このことからファ-ブルが、研究所や科学アカデミーの図書館でしか読むことのできない本を書く科学者とは異なっているのがわかる。
あらゆることに興味を示し、幼い頃住んだ土地と環境に強い影響を受けたファ-ブルは、文学や自然に対していつもこの最初の感動を見出した。こうして段々と自分の教養を高めていきながら、勉学、教育、意思の疎通といった大きな目的へ向かって希望を燃やしていた。彼の興味は自然の流れに沿って一つの題材から別のものへと導かれていった。ファ-ブルの集大成の一部またはある部分を無視することはばかげたことである。それは彼が人生の各段階毎に自分を取り巻く世界から多くのものを吸収しているからである。ウエルギリウスを想起させるスコラ学的な厳格さを好んだ子供時代から、アルマスでの光り輝く人生の最後までに、基本的あるいは伝統的なものから、先駆的なものまで多くの専門分野の充実した作品が生れていった。
また、学者、哲学者、盲の指物師、小学校の先生、医者、本当のプロヴァンス語復興論者も何人か含まれる詩人などの変化に富んだ友人達と、ファ-ブルのセリニャンのアルマスとは、切り離すことができない一つのものである。
この鋭い観察眼を持った自然科学者は、優れた総合的な作品を書いた。ファ-ブルの壮大な考え方をよく理解するためには、彼の知人、移り住んだ場所、彼を取り巻く自然を知ることが必要である。
自然への感性の目覚め
主要道路から外れたルウエルグ地方の後背地サン・レオンス・デユ・レヴズの村で、1823年12月21日ジャン・アンリ・ファ-ブルは生れた。この小さな村にはゆるやかな谷間の斜面に数十軒の家があるだけで、その上方には小さな城が村を見下ろしている。彼の父親は実業家または三百代言家であり、仕事は不規則で少なかったので、少年は早い時期に、もう少し北に行ったところにあるマラヴァルの祖父母の小さな農家に預けられた。
ルエルグ花崗岩と呼ばれるコ-ス台地に属するこの雄大な広がりは、ゆるやかな傾斜地から成っている。そこでは、特に貧しい家庭では、人々の性格は厳しく鍛えられ、勇気があり、強情である。自然の支配の下に村人はグループで生活し、お互いが密接な関係で結ばれている。この自然の威力は代々語り続けられた伝説によって強化され、美に対する繊細な感覚と知識欲を持っている人だけが、隔世遺伝から抜け出して開花することができる。
祖父母のマラヴァルの農家は鈍重な花崗岩の建造物に家畜小屋がくっついたもので、屋根はローズの板石で葺かれ、近くからでも景色に紛れて見分けがつかない。ヒースの草原、痩せ地の樵や樫の林、孤立し見捨てられた地である。厳しい寒さの冬のあとには春が突然訪れる。祖父母はわずかな土地で数頭の牛、豚、羊を飼って糧にしていた。日常の行動はすべて季節の巡りに左右されていた。
マラヴァルはサン・レオンス同様、過酷な気候の土地で、季節の格差が甚だしく、家族のみんなが力を合せて苦楽を共にするが、それでもしばしば生活はつらかった。どんな時にも見せたファ-ブルの闘志は、間違いなくここで育まれたものである。しかし、人生の始めからすでに予測された障害物のある道のりであるが、またその自然によって啓示を受けたのも確かである。それが、他人には辛いと思うこともファ-ブルにとっては喜びになる原動力であった。《ある日、手を後ろに組んだチビのこの私は、太陽に顔を向けて物思いにふけっていた。燦然たる輝きは私を魅了した。私はランプの明リに惹きつけられるシャクガであった。》(昆虫記、6巻「隔世遺伝」)と後年、マラヴァルの生活を思い出して書いている。
7才になった時、ファ-ブルはサン・レオンスの村へ帰って来た。集落と向いあった丘の中腹にある彼の生家は二部屋しかなかった。家の中があまりにも狭いために、ほとんどいつも外で遊んだおかげで、彼の観察眼は目覚めていった。村の周辺や日当たりの良い泥炭地のある台地で、ファ-ブルは発見や観察によって自然の不思議に心を開いていった。それは石面にきらめく結晶、揺れ動く藻で染まった小川の刺魚、立て込んだ榛の木、メタリックブルーの黄金虫などであった。《夜になり、近くの繁みの辺りで何かの物音が私の注意を惹いた。それは夕闇の静けさの中でとても弱々しくやさしい鳴き声であった。雛鳥が巣の中で鳴いているのだろうか。ちょっと見てみよう。[...]長い間私は見張っていたが、なにも現われなかった。ちょっとした物音をたててもその鳴き声は止んだ。次の日も試してみた。そしてその次の日も。今度は私の粘り強い待ち伏せは成功した。ぱっと手を出して歌い手を捕らえた。小鳥ではない。それはキリギリスであった。その美味しい股肉は仲間が味見をさせてくれて知っていた。私の長い待ち伏せの代償としては些細なものである。この経験の一番の価値は、海老の味のする二本の股肉ではなく、いま私が学んだばかりのことである。今私は観察によってキリギリスが鳴くことを知った》(3巻、「隔世遺伝」)。
【写真】マラヴァルの農家、1920年頃撮られたもの。アヴェロン県立資料館、E.ゲラール、コレクション。
すでに観察者であり途方もない記憶力に恵まれ、一人になったファ-ブルは、夏の間飼育をまかされた数匹のあひるの子がほとんどいつも仲間であり、あらゆる感覚が目覚めていった。この限りなく躍動する世界を観察し、想像し、説明する情熱を見出した。物事が確認できるまで何回でもその動作は繰り返された。これらがすべて相まって後の哲学の基礎となる。
彼の名親でサン・レオンスの教師であり、床屋であり、教会の鐘撞きによって、ファ-ブルは片田舎の豚や鶏が走りまわっている納屋で読み書きを覚えた。しかし、一番大切な教材は、父親から貰った動物が描かれているアルファベットの図版であった。それは Âne(ロバ)の A から始まり、Boeuf(ウシ)は B を教え...Hippopotame(カバ),Kamichi(ツノサケビドリ),Zébu(コブウシ) は H、K、Z を言わせようと意図したものである。
ファ-ブルは昆虫記の中で時々この青空学級の思い出を書いている。《四分の三世紀前、初めてスズガエルのやさしい鐘の音を聞いたあの平たい石のところに、私は目を閉じていても真直ぐに行くことができる。...小川のほとりの、絡んだ根がザリガニの隠れ家となっている榛の木の正確な位置を思い浮べることができる。...太陽の輝くある春の朝、小さな私の胸が高鳴ったトネリコの木を躊躇なく見つけられる。その木の絡まった小枝に白い綿玉のようなものを見つけた。心配そうに綿の中に引っ込んだ赤い頭巾の小さな頭が覗いて見えた。凄い発見である!それはゴシキヒワの巣であった。母鳥が卵を抱いていた》(8巻、「ひめはなばち ー 門番」。
当時は自然科学の公的教育は初歩的なものでしかなく、未来の科学者としてのファ-ブルの能力、感性、感受性に応えるには不十分なものであった。
独学
ファ-ブルが10才の時、両親と1826年生れの弟の4人は、サン・レオンスを離れ、若い両親が貧乏から抜け出すためにカフェを開くつもりのロデーズ市に移った。それ以後彼の独学は始まり、義務教育はしばしば両親の不幸のせいで中止せざるを得なかった。アヴィニョンの師範学校のお蔭でしばらくの間であるが、やっと勉学を続けることができ、そのことによってその後多数の高等教育資格を得ることができた。そこでの3年間に、ファ-ブルは幸運にも確実な知識を身につけることができた。
ロデーズではファ-ブルは王立学校に入学を許され、優等生には昔からのしきたりで学資が免除されるが、彼はその恩恵に浴した。既にその時、若いファ-ブルは教師が自然の観察や研究にはあまり関心がないことを残念に思った。学校以外では寄宿料を払うために、アルバイトで聖歌隊に入った。この王立学校には多くの蔵書を有する図書館があった。ラテン語とギリシャ語は必須科目としてあったが、ファ-ブルはウエルギリウスを発見し、「転身」と「田園詩」を興味をもって読み返した。古典の著作に早くから親しんできた彼は、ラテン語で同じくウエルギリウスの「農耕詩」を読むことができ、ギリシャ語文献も理解し始めた。ファ-ブルの科学者としての歩みは常に古典と深く関わっていた。現在でも王立学校の資料保存室には、この時期のファ-ブルの数科目にわたる優秀な成績の記録が残っている。
しかし、両親の「カフェ・ルキュルス」と呼ばれた小さな店は、収益がほとんどなかったので、家族はロデーズを去って、先ずオリヤックに行き、僅かの後南部のトゥルーズに引っ越す。この大都会のエスキーユ・コレージにファ-ブルは入学した。中学2年をかろうじで終えることができたが、ここでのうち続く困難は両親にモンペリエーで新たに店を開く決意をさせたが、これも失敗に終ったので、遂にローヌ渓谷にあるピエールラット市に身を落ち着けた。
ファ-ブルの家族の旅路を追う前に、私達はここでのおもしろい小さな出来事を付け加えたい。モンペリエ-での短い滞在中に、16才のファ-ブルは一時この市にある有名な医学校に入学したいと思った。正にここは、ファ-ブルが永遠の心の友とする、風刺的ユマニスト、フランソワ・ラブレーが 1530 年頃に学んでいた学校ではないか!医学に惹かれたことは若いファ-ブルの多方面に開かれた感性と能力の表われを示すものである。しかしこれは一瞬の閃きにすぎなかった。1849 年は両親にとって最悪の年であり、彼らは悲惨な境遇にある二人の子供に独立を言い渡した。
ファ-ブルはいつも様々な分野を学びたいと希求していたが、それに応える前に先ず自分の身を養わなければならなかった。自分の欲望と展望に対し、この時期の現実は間違いなく彼の人生で一番つらい日々であった。このジレンマから抜け出ることは難しく、不安に駆られた青年は挫折の一歩手前であった。社会からなんの援助もなく、ほとんど犯罪者に落ちるところだったこの時期のエピソードに、ファ-ブルは晩年になってからでさえ触れることは避けていた。この苦境から早く抜け出られたのは、幼いときすでにマラヴァルで人生の厳しい現実を経験していたおかげである。
この時期、彼はニームとボケールをつなぐ鉄道敷設工事に人夫として雇われた。ボケール市内ではレモンの売り子として、葡萄の葉が色づく頃にはしばしば葡萄を盗んで飢えを癒し、時には僅かな蓄えをはたいて、ニームの詩人でありパン屋のルブールの本を買った。
しかしやがて立ち直ったファ-ブルは、学校以外で得た高い教養や知識を自覚しており、アヴィニョンのエコール・ノルマルの生徒募集の張り紙を見詰めた。この師範学校の入学試験を受け、第1位で合格する。それは1840年のことであった。
【絵】アヴィニョン、時計台広場、1835 年頃。作者不明のリトグラフ。アヴィニョン市立図書館。
この幸運のお蔭で、ファ-ブルは学業の大幅な立ち遅れを取り戻すだけでなく、多数の科目についても、類まれなる習得能力を発揮した。しかし若い時から自由の味を満喫したことで自分の世界観を持っていたファ-ブルは、厳格なカリキュラムばかりの教育に従うのは大変な忍耐を要した。最初の数か月はちょっとした波乱があった。必須科目のいくつかをなおざりにして、他の科目に専念したために叱責されたが、自尊心も加わってすぐ本分に戻ることができた。だが彼の本望は変わらず、いつも自然から学ぶことを求め続ける必要を感じていたので、時には色々な方策を用いた。それは例えば、暖かくなると寄宿舎を抜け出して、ポケットにチーズと一切れのパンをしのばせて、星空の下フォンテーヌ・ドゥ・ヴォクリューズまで歩いて行くと、川のほとりの岩の窪みに入って眠った。夜明まえに起きだし、通りがかった荷車の後部にひそかに飛び乗って、来た道を町へ引返した。丁度みんなが起き出す前に、部屋にたどり着くことができた。1842年8月、すべての科目に好成績を得たこの若い奨学生は、高等教育証書を獲得し、3年の教育課程を2年に短縮されるという恩典を受けた。
【絵】ジャン・アントワーヌ・コンスタンタン、「フォンテーヌ・ドゥ・ヴォクリューズ」。アヴィニョン、カルヴェ美術館。
【絵】 ヴァントウー山の前壁。ベドワンとマロセーヌをつなぐ道路。
ジャン・ジョゼフ・ボナヴェンチュール・ローレンの水彩画。カルパントラ市、アンギャンベルチーヌ図書館。
カルパントラ
知識の向上をはかる教師、
息苦しい学校
カルパントラ市の小学校の分校に、1842年にファ-ブルは初めて教師の職を得た。サン・レオンス村の子が教師になれたのは明らかに独学によるものであった。その後ファ-ブルは、しばしば彼の持論である、当時の子供が最悪の条件下で初等教育を受けさせられていることを糾弾した。40年後再びカルパントラを訪ねたファ-ブルは、かつて教職にあった高等中学について次のように記述している。《外観は昔と少しも変わらずやはり監獄のようであった。いにしえの中世風教育とはこのようなものだと考えられていたので、若者の陽気さや活発さは不謹慎だとされ、それに対し厳格さ、陰気さ、難解さが要求された。学びの舎というよりはむしろ体罰の家であった。抑圧された監獄のような雰囲気の中で、新鮮な文体のウェルギリウスは学ばれていた》。
1842年10月の新学期から1849年の1月まで、彼はカルパントラに在職していた。その間、生徒のために少しでも教育条件の改善を計ろうと、気候が温暖なときにはできるだけ野外で授業をした。また自分のためには、新しい分野でいくつかの免状を取得するために、特に昆虫学の研究論文には熱中した。まさに勉学への熱望は大食症患者のようである。厳しさを自分に課することは端的に知識となって表われてくる。今回もファ-ブルは、すでに学んだ多くの科目の中から、科学と文学、詩を人生の主柱とする当初の希望を満たすための調和のとれた選択をした。ファ-ブルはその時、数学の研究集とひまな時に書いた最初の詩の一つ「数字」を表わしているので、プラトンの「幾何学者でない者はここに入るべからず」という教えをすでに自分のものにしていたと思われる。1844年に文学バカロレア、1846年に数学バカロレア、それから1847年には数学士号を、1848年には物理科学士号を獲得した。
【イラスト】1842年、ファ-ブルに交付された教員資格認定書。
イヴ・ドゥランジュ氏所有。
ファ-ブルの性格の中で注目すべき特徴は、特に科学者としての自分自身を信頼していたことである。彼はしばしば直感によって行動したが、時には大胆でさえあった。例えばある時、年長の生徒の一人が入学試験のために代数の個人教授を依頼してきた時、彼は代数を全く学んでいなかったが、即答をしなければならなかった。この科目は大いに勉強する価値があると見て取ったファ-ブルはそれを独習できると思った。そこで同僚の教員が代数の本を持っていたことを思い出し、この生徒の申し入れを受諾した。この同僚は気難しかったので、ファ-ブルは空き巣のまねをして本箱の鍵を開け、しばらくの間その本を借りた。若い先生のファ-ブルは代数を習いながら教えていった!
【絵】ジゴンダス村とモンミラーユのぎざぎざ峰。ジャン・ジョゼフ・ボナヴァンチュール・ロランスの水彩画。
カルパントラ、エンゲンベルティ-ヌ図書館
教員としての仕事以外には、自然科学の研究を深めていった。プロヴァンスのこの地方は、昆虫や植物の大宝庫であり、ファ-ブルはそこで、膜肢目の奇妙な習性の中でも特にツチスガリの偉業を目撃する機会を窺っていた。観察するためには、表面が固く締まった砂地の斜面で、日当たりがよく乾いた土地を見付ける必要があった。この研究に役立った出来事は、本屋で目に入ったカステルノー、ブランシャール、リュカの豪華で数巻の「体節動物の自然科学」であった。ああ、なんと抗し難い誘惑であることか!その値段は...《わずかに》教員の給料の一ヶ月分であった。たった数週間の飢えと、三級の葡萄酒さえ飲めないからといってどうってことはない...まもなく彼の小さな机の上の本棚には、繊細な版画が挿入された美しい全集が並べられた。
全集を購入したことが彼の昆虫学の出発点となり、この研究は生涯にわたって深められていき、彼を偉大な《虫の先生》にした。もっと重要な一時期は、沿道のくぼみでツチスガリを見付けたときである。それは生態的に無限の価値を持つ虫と、自然に対して鋭い感覚を持ち合わせたファ-ブルとの出会であり、宗教的な深さともいえる情熱のほとばしりであった。それは昆虫学者ファ-ブルの自然に対するもっとも繊細な感覚の表われであり、日本に於けるファ-ブルの評価を高めた原因の一つであることは間違いない。
【絵】ヴォジェ-ルにあるロマン氏の風車、1848年。シャールル・モンティニーの水彩画。アヴィニョン私立図書館。
Jules Laurens, Aqueduc de Carpentras, Carpentras, musée Comtadin-Duplessis
同じ時期にファ-ブルはカルパントラの小学校教員のマリー・セザリーヌ・ヴィラールと知り合い、1844年10月に結婚した。二人の給料を合わせても、不味い葡萄酒とひよこまめしか食ることができなかった。生活はきわめて苦しかった。これほど多くの免状が無駄になってしまった。初めて生れた子供はすぐに亡くなった。高校の教師の資格取得のため文部省に何回も申請をした揚く遂に1849年1月アジャクシオの高校の物理科学の職を得た。
【絵】山道と突き当たりはカルパントラの水道橋。ジャン・ジョゼフ・ボナヴァンチュール・ロランスの水彩画。
カルパントラ、エンゲンベルティ-ヌ図書館
【絵】1888年頃のアジャクシオ。フランソワ・コルベリニの水彩画。個人所有。
アジャクシオ
コルシカの自然の発見
自然科学者の孵化
ファ-ブルはプロヴァンスとラングドック地方の原生植物や独特の動物がいる自然や頑強な民族を愛したが、コルシカでは汚れのない文明が調和を持って未だ保存されているのを発見した。
彼はコルシカで、地中海文明の典型的な文化と自然と民族に出会った。雄大で野生的な自然は島であることでさらに際立った。コルシカの特徴である海と空の青色の間には、いろいろな香りのする景色が続き、完全を求める自然科学者でさえ満足するものであった。ファ-ブルは広大な砂浜、好塩性植物の生える平野、カランク1.、それにマキの斜面2.が急な雪の頂上につながる光に溢れた自然を発見し、まるで新世界を眼の当りにしたような目のくらむ思いであった。1849年の初め、妻と一緒にアジャクシオに落ち着いたファ-ブルの前には、研究にうってつけの素晴らしい世界が広がっていた。そこでの仕事の条件は明らかに改善され、小学生と違って中高生には、物理と化学の授業は大きな関心を呼び起こした。確実な知識と免状のおかげで、この若い教師は、やっと新しい職場で能力を発揮することができたことにより、しばらくは大学教授への止み難い思いを忘れるほどであった。アジャクシオに住むとすぐにファ-ブル夫婦は、島の一番大きな湾に沿って曲がりくねっている花崗岩の懸崖のサンギネ-ルやパラタの道を通って、細かい砂の浜辺へ遠足に抜け出した。
【訳者註】
1.地中海の岩に挟まれた細長い入り江。
2.コルシカ島や地中海沿岸の潅木地帯。
若いときから多くの分野で能力を発揮したファ-ブルは、貝や苔などの自然の造形物を発見しては識別し、それを収集した。魚市場には銀色のチヌ、大頭のカサゴ、皮のぬるぬるしたイソギンポ、赤ベラ、青ベラなどが溢れていた。まもなく二人は、波が打ちつける岩場に行って、ムールガイ、イモガイ、セイヨウカサガイ、「中国風帽子」カサガイ別名プロヴァンスのツタノハガイを自分たちで拾ってきた。海岸では潮が引くとタマキビや「海の耳」ミミガイを初めて石の下に見付けた。この豊かな地上性、淡水性、海水性の貝類や軟体動物を前にして、ファ-ブルは本にするために多くの記述をしたが、残念ながらこの「コルシカの貝類学」は未刊に終った。この本は軟体動物でも特に貝類のリストアップと記述がなされ、それはリネ、ラマルクなどの資料に加えて、ファ-ブル自身のオリジナルな記載が続く。それはおそらく彼の自然科学の研究の中では特筆に値することであるが、残念にもコルシカの滞在は打つ切られ、ついにこの作品は日の目を見ることができなかった。
【絵】【左】Leuzea conifera D. C.。フランスとコルシカのガリーグの石ころの斜面。マドゥレーヌ・ロリナの水彩画。
【中】Limodorum abortivum Swartz. フランスとコルシカのある種の木に寄生するランの一種。マドゥレーヌ・ロリナの水彩画。
【右】Gagea arvensis Roem. et Sch. 、フランスとコルシカの石原(黄色の花)。Hepatica triloba Chaix (一名 Anamone hepatica, L. hepatica L. フランスとコルシカの石灰質の山林(紫色の花)。マドゥレーヌ・ロリナの水彩画。
この島に毎年春が巡ってくると、ファ-ブルは復活祭の休暇を利用して植物採集に出かけた。アヴィニョンの友人で2年の予定でコルシカに在住しているエスプリ・ルキアンと文通を続けていた。二人とも植物学に夢中であった。ファ-ブルはコルシカのあちこちであらゆるものを採集した。先ず、きれいな苔の植物標本を作った。コルシカでは約三千種の植物が確認されており、その内の多くは固有種である。晩春、ケイ質岩上にはアブラナ科の Alyssum corsicum の小さな黄色い花、もっと高いところの日当たりの良い山地では Laserpitium cynapiifolium の白い傘形の花序、山地の牧場では春先 Alnus suaveolens の尾状花序が見られる。
もっと島の奥に入って見ると、地中海地帯の種である、Silene esculenta、Stachys glutinosa,岩性の Pancratium、Borrago laxiflora,Arenaria balearensis を見付けることができる。
【絵】エスプリ・ルキアン。肖像画:ビガン。アヴィニョン、ルキアン美術館。
紙に挟まれた植物標本の山から、乾いた草の香りが家中に漂っている。ある日ファ-ブルはルキアンに贈るために、珍しい植物を大量に採集していたが、島の南部のボニファシオに住んいたルキアンの突然の訃報に接した。彼と一緒にコルシカの植物相(フロラ)を作る計画は永久に水泡に帰した。
その後ファ-ブル夫妻は、ルキアンの紹介で来島したモンペリエの動物学者でトゥルーズの教授である、モキャン・タンドンを迎えた。彼との出会いはファ-ブルにきわめて大きな影響を与え、生涯にわたって自然科学者であることを決意させた人物である。コルシカ島は美しい植物種が多く、動物学者にとってもきわめて豊富な自然の地である。稀に見事な群れをなして表われる野生の羊類や野豚以外は、蜘蛛、昆虫、甲殻類、爬虫類の多くの種が見られる。ファ-ブル夫妻は、彼らの新しい友達と一緒に二週間というもの、あちこちの興味ある場所を徘徊し、海のものなどを味見したりした。当時ファ-ブルは、自然科学者としての将来を懸念し、数学の研究を続けるつもりでいた。しかしモキャン・タンドンは彼に忘れがたい言葉を言った。《もう数学なんて止めなさい、誰もあなたの公式などに興味を持たないでしょう。動物と植物の方にいらっしゃい。そうする勇気はお持ちだと思うが、必ずあなたに耳を傾ける人々がいるはずです》(6巻、「私の学校」)。
ファ-ブルより20才年上で、いくつかの国立学士院の会員で、さらに詩人であり広い分野の文学者である繊細な精神の持ち主のモキャン・タンドンは、ファ-ブルに深い影響を与えたことは確かである。忘れ難い言葉に続いてモキャン・タンドンは、ファ-ブル夫人の縫針を二本借りて葡萄の小枝に差し込み、この原始的な道具だけでまばゆいばかリにカタツムリの生体解剖をやってのけた。半世紀のちファ-ブルはこの生体解剖について次のように書いている《それは私の人生にとってたった一つの忘れられない自然科学の授業であった》。決心はついた。この時以来ファ-ブルは決してあとへ引返すことはなかった。
その後まもなく、市議会の決定により教師の給料が半分に減額された。妻のマリー・セザリーヌは、1850年にカルパントラでアントニアを出産している。ついに物理学の授業が廃止された。ファ-ブルは植物が豊かに生い茂る沼地や塩平野で、腹足類や小さな虫が引き金となってマラリヤに罹病したことから、1851年コルシカを離れて大陸へ戻った。
アヴィニョン
公教育と教育外教育
独立のきざし
いまや確実な知識を携えたファ-ブルは、自分の進むべき分野を決めた。科学においては昆虫の行動学、つまり虫の習性の研究に情熱を傾けたが、また優れた教育者としての研鑚も同じ程に続けられていった。アヴィニョンのリセで、物理化学の教師として18年間(1853~1871)教師を勤めたファ-ブルは、こうして多くの学識経験を積み重ねていった。
ファ-ブルはアヴィニョンに任命されたことを喜んだ。それは郊外のロベルティの農家に両親や弟が住んでいたからでもあった。両親はやっとそこで落ち着いた生活を20年間送った。しかし何にもまして大きな喜びは、アヴィニョンという地中海的な動植物の豊かな生息地に立ったことである。振り返って見ると、ファ-ブルの経てきた道のりは常に雄大なヴァントゥ山が見える光り溢れた場所への回帰のためであったことが分かる。
【絵】ヴァントゥ山、1892年10月。ジョゼフ・エセリックのパステル。
カルパントラ、エンギャンベルティーヌ図書館。
アヴィニョン滞在の2年目に、ファ-ブルはモキャン・タンドンの忠告に応えて、きっぱりと数学教授資格の受験を放棄して、自然科学の道を選ぶと自然理学士号試験に臨んだ。1854年8月1日、彼は弟に手紙を書き送っている。《トゥールーズから今戻ってきたところだ。今度の試験は今までのうちで最高の出来であった。学士として承認され、審査委員から身に余る賛辞を受け、試験費用は免除された。試験内容は予想外に高度であった...》。
この成功は将来の目的を推進するのに大いに役立ち、次の重要な段階である博士号への道を開いた。教師は通常大学教授資格か博士号の受験を選択することができる。もしファ-ブルが大学教授資格試験を選ぶならば膨大な知識をもたらすが、しかし個人的な研究のほうは断念せざるを得なくなる。ファ-ブルにとって知識を深めるとは、同時に自分のテーマで研究することである。博士号を選んだ彼の論文の主題は《多足類における生殖器官と発達の解剖学的研究》であった。パリで行なわれた博士論文の口頭審査員は、国立自然史博物館の教授ヘンリ・ミルヌ・エドワーズ、イジドール・ジョフロワ・サンティレールと植物学者のパイエーといった錚錚たるメンバーであった。慣例により、論文には第二のテーマが必要であり、ファ-ブルが選んだ植物学の研究は「Himantoglossum hircinum における塊茎の研究」であった。植物学においても動物学同様、ファ-ブルは大学独特の表現法に従った。それは厳しい規則に則った正確な書き方が要請され、文学風の文体は認められなかった。こういった紋切り型の書体を体験したファ-ブルは生徒にも将来のためにそれを伝授した。
これは1855年のことであり、この年はファ-ブルにとって研究の面では幸運な年であった。科学アカデミー主催のモンティオン生理学賞のコンクールで彼は《良》の成績を得た。それは《ジガバチ科の本能と変態の研究》で、その年の「自然科学と動物学年報」に掲載された。このテーマは後の「昆虫記」へと大きく展開していく。
【絵】Ophrys arachnitiformis Gren. & Philip. ,プロヴァンスの丘の草原。マドレーヌ・ロリナの水彩画。
1856年9月1日に書かれた未発表の観察日誌は、昆虫記の文学調とは異なり《第一試験管、アナバチの小室から取り上げたコオロギ。第二試験管、アナバチから取り上げたコオロギ。第三試験管、自分の目の前でアナバチが刺したコオロギ。》といった文体で、麻痺による肢、触角、大顎の拍動について長くて詳しい記述が続いている。また時にはもっとも観察に困難な場所での微妙な実験をすることもある。例えば、7月23日の書き込みには、数種の膜肢目の捕食昆虫を観察するために、すぐそばの台地で守備隊が的に向けて射撃の訓練をしているイサールの森に行った。《たくさんのツチバチの雄は緩慢に地面近くを飛んでいる。少数の雌はかなり強い風にあおられて、ときどき地面に叩きつけられては頭をしばらく下げたまま動けないでいる。それを見た雄は急いで雌の上に飛び降りるが、むげにも追い払われる。この出来事は射撃の採点者の防御用の小山の少し前で始まった。冬にこの辺りを掘ってみれば必ずツチバチの繭が見つかるはずである》(観察日誌の抜粋から)。
コルシカから戻ったファ-ブルは、情熱の対象である虫の観察を再開し、気候が良くなると、アヴィニョンの郊外の田園やガリッグ、河岸の砂地などを徘徊し続けた。そしてしばしば妻のマリ-セザリーヌを伴って戻るカルパントラの近くでは、彼は何年か前に膜肢目の特にツチスガリの習性を発見した時の感動がよみがえってきた。正にこの時期にファ-ブルの昆虫学の研究に大きな影響と向上をもたらすことになる出会いがあった。以前からファ-ブルは、ランド地方の医者で、広い視野の昆虫学者レオン・デュフールに、いくつかの出版物を通して関心を寄せていた。
【47】
【絵】プロヴァンスの植物。マドゥレーヌ・ロリナの水彩画。
【左上】Lilium martagonL.
【右上】Trollius europaeusL.,Campanula barbataL.
【左下】Narcissus juncifolius Lagasca.
【右下】Iris chamaeiris Bertol.
【48】
正確には1855年、デュフールは国立動物学会年報に、「ファ-ブル氏のツチスガリについて一言」と題した記事を書いた。こうして二人の昆虫学者は1856年からレオン・デュフールが死んだ1865年まで、文通が続けられた。デュフールは、膜肢目の昆虫が獲物であるタマムシを、不動でしかも生きたまま保持する秘密は《保存液》によるものだと推測している。ファ-ブルは逆に、きわめて緻密な観察に基ずき、神経中枢が破壊され麻痺している犠牲者を持ってきて立証して見せた。二人の自然科学者はお互いに深く尊敬しあっていた。これらの動物行動学上の発見は、アヴィニョン、オランジュ、そしてセリニャンのアルマスで数十年間も続けられた。私達は未発表の多くの記述を読んで確認しているが、ファ-ブルに悪意を持っている人々が主張しているのとは逆に、彼は研究の対象である虫の種名については非情に正確さに気を使っていた。大都市から程遠いアヴィニョンであるが、アルマスはもっと孤立しており、ファ-ブルは定期的に科学者の社会と接触を保っていた。これはファ-ブルが熱心に書き綴ったきわめて豊富な交信が立証している。