【83】

  菌学者ジャン・アンリ・ファ-ブル!実際には、彼をこう呼んでも別に驚くことではないのだが、かの有名な大作である昆虫学の著作に隠れて、彼がキノコに興味を持っていたことはほとんど知られていないからである。いつの時代にも、キノコは人に不思議な魅力を感じさせてきた。ギリシャ・ロ-マ時代の作家達はキノコについて多くの突飛な理論をでっちあげたし、また今日でも、自分の庭にキノコが生えているのを見ると嬉しい驚きを覚える。さらに森の小道などでふと遠くにキノコを見つけて駆けつけ「ああ、ツマラナイタケだ!」と足蹴にしたとしても、それもやはりキノコに魅せられた証だと言えよう。

  私達でもこうなのだから、自然に対する旺盛な好奇心の持ち主のファ-ブルが、キノコに大きな関心を持ったのもまったく当然であり、もちろんそれは幼い頃からであったとファ-ブルは晩年語っている。

《穴をあけた箱に山査子の花床を敷いて、コフキコガネとハナムグリを有頂天になって飼っていた子供の楽しみである虫とほとんど同じくらいに、小鳥もまた、その巣だの卵だの、開いた黄色い嘴だのが、たまらない誘惑であったが、同じくキノコも、そのさまざまな色彩で幼い頃から私を惹きつけていた。やっとズボン吊りを着け始めたころの、そしてちんぷんかんぷんの文字がどうにか解りかけてきた頃の無邪気な少年であった私が、初めて見つけた鳥の巣と初めて摘んだキノコを前にして、胸が高鳴ったのを今でも思い出す。子供にとって重大な出来事を語ろう。老いると昔のことを話すのがすきである...                                     

《...小川の向こうには、幹が柱のようにつるつるしたブナの林がある。堂  たる枝ぶりの豊かな葉の繁りの中では、ハシボソガラスがガアーガアー鳴いたり、新しく生えかわった羽に混じる古い羽を、翼から引き抜いたりしている。地面は苔の絨緞で覆われている。この柔らかい敷物の上に足を数歩踏み入れたとたん、離れた鶏が産み落としていった卵といった風情の、まだ傘の開いていないキノコが見つかる。これが私が初めて採ったキノコであり、観察力の目覚めともいえる漠然とした好奇心から、その構造を調べようと指の間に挟んで裏返したり戻したりした最初のキノコである。                                    

《やがて大きさや形や色の異なる別のものが見つかった。それは初心者にとって全く目のごちそうであった。釣鐘形、ろうそく消し、コップの形に細工したようなものがあった。また紡錘形に引き伸ばされたり、漏斗のように真ん中がくぼんでいたり、半球形のように円いものもあった。また別のキノコで、たちまち青色に変わるものも見つけた。腐って蛆がうようよしている崩れかかった大きなものもあった。                                    

《また別のものは、洋梨の形をしており、からからに乾いて、てっぺんには円い穴が開いている。指先でその腹を軽くたたいてみると、この穴は煙突のように煙をはき出した。これが一番奇妙なキノコだ。中身がなくなってほとんど火口のようになるまで、いつでも好きなだけ煙を出させられるように、ポケットに詰められるだけ詰め込んだ。                       

《この歓喜の林のえもいえぬ楽しさ!何回も私は、この最初の幸運な発見をした場所に戻っていった。そこで、私は最初のキノコの授業をハシボソガラスと一緒に受けたのである。私が採集したものは、当然ながら家では受け入れられなかった。キノコつまりプロヴァンス語の Boutorel は、中毒を起こす悪いヤツだと皆が言っている。母親は詳しく知ろうともせず、初めからキノコを食卓に寄せつけなかった。こんなに感じのよい Boutorel が、どうして皆が言うような悪戯をするのか、私には全く分からなかった。しかし両親の経験を聞き入れたので、この毒殺者との軽率な関係からは何の危険も生 じなかった。

 

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【絵】ファ-ブルの水彩画1885年12月4日:
【左上】コナヒトヨタケ、【右上】ヒカゲタケ、【左下】アンズタケ、【右上】ホウキタケの一種を組み合わせた図版。

《このブナ林へ何回も通っているうちに、私はそこで見つけた物を三つのカテゴリーに区別することができた。一つ目は、これはかなりの数であるが、キノコの下側に放射線状のひだがあった。二つ目は、下面がやっと見分けがつく小さな穴だらけの厚いクッションで裏張りをされたものであった。三つ目は、猫の舌の乳頭突起のような小さな刺で覆われていた。記憶を助けるための整理が必要であり、私は一つの分類法を発明した。

《かなり後になって、何冊かの小さな本が手に入り、それを読んだ私は、そこに私の三つの分類法がすでに記されているのを知った。しかもそれらにはラテン名 さえ付いていたので、いたく私の気に入った。この分類は、私に最初のラテン語のthème(自国語→外国語への翻訳)とversion (外国語→自国語への翻訳)を与えてくれたことによって高貴なものになり、また司祭様がミサのときに使うこの古代の言葉によってさらに輝か しくなったので、私のキノコに寄せる尊敬はいっそう高まった。こうして学者のように呼ばれるからには、キノコはきっと偉いに違いない。

p_84b                【絵】アラゲホコリタケ、ビュリアールの「フランスのキノコ」から、1791年。

                【85】           

《同じ本には、私に煙突の煙だしを堪能させたキノコの名前が出ていた。それは狼のすかしっぺと呼ばれていた。この用語はあまり私の気に入らなかった。なんだか悪い仲間の匂いがする。その横に Lycoperdon という品のよさそうな呼称が見つかった。しかしそれも結局は見かけだけであった。ギリシャ語の語源によれば Lycoperdon とは、まさしく狼のすかしっぺであることを、私はのちになって知った。植物の名前には訳が適切ではないものが多い。植物学の古代の遺贈は現在のものほど控え目ではなく、時には品位を欠いた粗雑で大胆な言葉を保持していることがある。

《子供の探求心から、独り、キノコを知ろうと学んでいた素晴らしいあの時代は、何と遠くになってしまったことか!  Eheu, fugaces labuntur anni、「ああ、年月ははかなく過ぎ去ることよ」とホラティウスは言った。おお然り!月日というのは、とりわけ人生の終りに近づけば近づくほど早く経ってしまうものだ》(10巻、「幼年時代の思い出」)。

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【絵】「煙突から煙を出す」ホコリタケ。ファ-ブルの水彩画。                                            

これらの思い出から、ファ-ブルがキノコを単に自然にあるありふれた物として見ていたのではなく、逆に、彼にとっては心を傾けられる重要なことの一つであった。

  《熱心な植物学者にとって、ここはうっとりするような地方あり、私は一か月、二か月、三か月、いや一年、独りで、たった独りで、樫の上で鳴いているハシボソガラスとカケスだけを仲間として過したい。苔の下に美しいオレンジ色、白色、桃色のキノコが、そして野には、小さな花がありさえすれば、私は一時も退屈することはないだろう》(ジャン・アンリ・ファ-ブルから弟フレデリックに当てた手紙、カルパントラ、1846年)。

                【86】                                   

              西洋ツキヨタケの発光の謎

ファ-ブルが最初に出した菌学の本はPleurotus phosphoreus(現代の学名は Omphalotus olearius DC.: Fr.) SIng.図版163を参照)の発光性についてであった1 。この研究ははっきり言って、現在では歴史的な価値しかないが、発光現象は彼の大きな関心事のひとつであった。ファ-ブルはその原因を知る必要があった。                                                 
 《そのことについて、オリーブの木のヒラタケPleurotus phosphoreus Batt.)に尋ねてみよう。これはなつめ色の見事なキノコであるが、その俗名「オリーブの木」はあまりふさわしいものではない。確かに古いオリーヴの木の下部には頻繁に発生するが、ツゲ、西洋ヒイラギガシ、スロープラム、イトスギ、アーモンド、ガマズミなどの木の元でも、私はよく採集した。基物となる木の種類にはあまり関係がなさそうである。これはヨーロッパにおいては唯一の、燐の発光という特徴を持つキノコである。傘の下面、その下面だけが蛍の光りにも似たやさしくて白い光りを放つ。それは婚礼と胞子の発散を祝って光り輝いている。化学者のいう燐とは何の関係もない。これは緩やかな燃焼であり、普通の状態の時より活性化した一種の呼吸である。窒素や炭酸ガスのような窒息性のガスの中では、この発光は阻止されるが、空気を含んだ水の中では光り続け、沸騰した水のように空気のないところでは消えてしまう。その光りは深い闇の中でなければ見えないほど弱いものである。夜、あるいは昼間でも、あらかじめ地下倉のようなところに居て目を慣らしておけば、満月の一かけらのような不思議な光景を見ることができる》(10巻、「昆虫とキノコ」)。

ファ-ブルの努力と考察ではあるが、残念ながらこの説明は必ずしも満足のいくものではなく、光りの謎の解明はなされていない。《オリーヴの木のハラタケに、満月の反映のようなやさしくて白い光りをもたらす酸化物質を知りたいのだ》(10巻、「忘れられない授業」)。

1934年、アルマスを訪れ息子のポール・ファーブルにインタビュをしたカミーユ・フォヴェルによれば、ファーブルはもう一つ、おもしろいキノコの研究をしていた。それは西洋ツキヨタケの発光性と、アカカゴタケの放射線を関係ずけるものであった。しかしアカカゴタケの放射線というのは、偶然で根拠のないものである。

《ファーブルの好奇心をかき立てたのは、風変わりで珍しいアカカゴタケClathrus cancellatus)であった...ファーブルはこのキノコが放射線を発することを発見しており、それはたとえば、離れた所に置いた紙の箱を通して写真の乾板を感光させるものであった...(彼は西洋ツキヨタケの発光性についても同じ指摘をしているが、私達はこのキノコに乾板を感光させる特性はないことを知っている)...この実験は1908年に行なわれた。翌年も同じ実験をするために、ファーブルは村の小学生に、このキノコ一本につき五フランを払う約束をした。しかしこのキノコの発生は、カゲロウと同じくらい気まぐれであった。この年は一本も見つからなかった。その後、寄る年並みには勝てず、ファーブルはこの科学的な研究を、完全に放棄せざるを得なかった》(カミーユ・フォヴェル、Camille Fauvel 「J. H. Fabre, Mycologue; une visite à l'Harmas」 Revue de Mycologie, t.2, suppl. 1937)。

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【絵】【上】「カササギ」ヒトヨタケ【和名なし】ビュリアールの「フランスのキノコ」から、1791年。
【左下】1889年10月と  【右下】1893年5月を、一枚の図版にまとめたもの。
ファ-ブルの水彩画,  ジェラール・ゲール氏所有。

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                【87】

p_87_redim4300【絵】トリュフ類。「Fungi Hypogaei」 から、テュラーヌ兄弟、1851年。

            《トリュフ を生む蝿》 の論争  La polémique de la "mouche truffigène"                                        

ファ-ブルが二番目に出したキノコに関する研究文は、昆虫学の権威であると同時に菌学の識者である彼に助けを求めてきた、ヴォクリューズ県の農業・園芸協会の会長イスナール侯爵の依頼により書かれたものである。これはやがてファ-ブルが傾注していく「昆虫とキノコのかかわり」の研究への序幕であった。しかしそれは、彼がオランジュの滞在を経て、さらにセリニャンに引退し、本当の菌学の作品であるキノコの水彩画を描くまで待たねばならなかったトリュフの発生地には、さまざまな双翅目の中でもしばしば  Helomyza [エロミザ] 属の虫が、その正確な場所の上空を静止したように飛翔するのが観察できる。この飛翔は決まってトリュフの真上で見られるので、それによって発生場所を知ることができる。この「ハエ採集法」はかなり昔から使われている。他人の「トリュフ山」に侵入する違法者がしばしば使う手であるが、それは豚や犬より目立たないからである。双翅目の昆虫とトリュフの因果関係といえば、トリュフはこれらの昆虫の幼虫の生育の場である。このような虫の幼虫とキノコの扶養関係は珍しくないが、たった一種のキノコに限るのは少ない。この双翅目の《トリュフ好き》の虫の特性は、地中性のキノコに従属した関係を持っていることと、ヤマドリタケやその他のひだのある地上性のキノコに卵を生みつける他の昆虫と違って、この母虫は先ず臭いによってトリュフ探知すると、幼虫にねぐらと食べ物を提供してくれるキノコに行き当るまで、苦労して地下道を掘ることである。                                      

この当時の学者はそろって 《トリュフを生む蝿の理論》に対し反論したが、逆に、19世紀後半の《サロン》 では、大きな反響を呼んだ。この理論は、トリュフをキノコと見なすことを否定しており、Cynips (タマバチ)がコナラ属の葉に寄生して虫瘤を生じさせるように、Helomyza 属の幼虫によってコナラ属の毛根上に、地下性の虫瘤が発育したものだと考えられていた。

                【88】

トリュフは間違いなく菌類である、と立証したヴィッタディニ2 と、特にテュラ-ヌ3 の研究に対立するこの《トリュフを生む蝿》の理論は、ペリゴ-ル地方というよりもむしろフランス南東地方の住民の古くからの言い伝えに基ずいていた。                   

《トリュフとは、蝿の注射によって根の上に生育した虫瘤である、という解釈は漠然とではあるが昔から、プロヴァンスやドフィネ地方の農民の間では広く知られていた。トリュフの収穫人がトリュフの蝿(プロヴァンス地方では  mouscous des rabassos、ドフィネ地方では mouchei de le triffes)と呼ぶ数種の双翅目は、トリュフの在所を示すばかりではなく、このキノコの生長を助けると信じられていた》 (シャタン氏の「La Truffe」,パリ、1869年)。

この理論が初めて記述されたのは17世紀末であるが、とても曖昧なものであり、プロヴァンスの弁護士クラリーによって知らされたデュモンは、それを次のように書いている。

《初夏になる頃トリュフは地中で腐り始める。この腐敗は大量の特殊な蝶を発生させ、それは新しいトリュフの誕生に必要である。腐敗の穴の跡にこの動物は産卵し、穴は塞がり次の夏にそこからトリュフが発生する》(デュモン、「Voyage en France et en Italie」、1699年)。                            

19世紀にトリュフ生産者の間に広がったこの考えは、1833年、エティエンヌ・ボネによってもたらされたが、これもまた曖昧なものであった。その後、ロベールはもっと詳しく説明しているが、それは断定的ではなく疑問の形であった。                                

《トリュフは目に見えない根の毛根の先端部、「aut saltem capillimentaris」とプリニウスが言うように、土とは全く無関係に発生するようである。数種のコナラ属の葉に見られる瘤のように、ほとんど同じ条件でトリュフも虫の注射によって生じたものであるのか?》 (ロベール、「Comptes rendu de l'Académie des Sciences」、XXIV巻、66頁、1847年)。

  10年後、マルタン・ラヴェルによって疑問は解消された!トリュフは虫瘤であり、特殊ではあるが《トリュフを生む蝿》に起因する瘤である、と彼は書いている。

《トリュフを生む蝿が毛根に注射するとトリュフができる。蝿は冬中トリュフの発生するコナラ林の30~40cmの地上を飛んでおり、やがて地中に潜ると、木の毛根の先端部を刺して産卵する...トリュフが他の虫瘤と異なる成分を持っているのは認めるが、やはり虫瘤である...間違いなく動物の所産である...いずれにせよ蝿がいなければトリュフもないのは事実である》(マルタン・ラヴェル、「Culture de la truffe」パリ、1857年)。

  ファ-ブルは 《トリュフを生む蝿》 という用語を完全に排除している。

       《先ず、虫は刺すために特別の器官、特に穴をあける道具、吻針かあるいは穿孔産卵管が不可欠である。このような器官を持つ虫は少ない。自然はこの器官を、数種の四枚の羽を持つ蝿にしか与えていないが、トリュフを生む蝿(返答の必要から、この変な表現を使うことをお許し願いたい)とはなんの関係もない。本当の表現を使って言うならば、虫瘤を作るのは蝿ではなく、膜翅目、つまりミツバチ、スズメバチ、マルハナバチ類などのような虫である》(ファ-ブル、「Note sur le mode de reproduction des truffes」ヴォクリューズ県の農業・園芸協会、1857年4月6日の例会、アヴィニョン)。

                【89】                                      

この当時、アヴィニョン王立リセの自然史の教師であったファ-ブルは、ヴォクリューズ県の農業・園芸協会の1857年3月2日の例会で会員と認められた。すぐに会長のイスナール侯爵はファ-ブルに、出版されたばかりのマルタン・ラヴェルの本の書評分析の作成を依頼した。ファ-ブルは1857年3月2日の例会に報告書を提出している。この報告書はいち早く、「自然発生」の仮説に対し論  しており、のち、ファ-ブルはマルタン・ラヴェルの理論に対して、次のような弾劾演説を行なっている。

《もう一つの仮説は、バス・アルプ県の奥からやってきたが、最初のものよりさらに奇妙である。ラヴェル氏によれば...トリュフは自然に広がるのではなく、数種の樹木、特にコナラ属の毛根に、蝿の注射によって発生するので、コナラの若枝にできる虫瘤と同じものとして扱い、地中の虫瘤はその一種であるという。したがって彼によれば、蝿やその注入がなければトリュフは存在しないという。もしこの所見を、単に私が親愛なる皆様方にお聞かせするだけであるならば、真面目に取り上げるのは羞恥に耐えません。そのうえ、イスナール侯爵閣下は、二・三の機知に富んだ言葉で、この容認しがたい自然発生説に強く鞭を当てられました。しかしこの協会の例会の趣旨は、会員同士の意見を交換するというよりも、むしろここで論じられているような、私達の地域の人々の利益に結び付く問題を話し合うという別の目的があります。話をラヴェル氏の意見に戻すと、この理論が十分な洞察力を持たない人々に広がる前に、それが甚だしい間違いであることを明示しなければならない。ラベル氏は30年間観察を続けたというが、皆様、たった一つの真実は、千人の意見に対してもその非を鳴らすことができるのです》(ファ-ブル、「Note sur le mode de reproduction des truffes]、ヴォクリューズ県の農業・園芸協会、1857年4月16日の例会、アヴィニョン)。

ファ-ブルは23頁の報告書のなかで、昆虫学的、菌学的な幅広い論拠を展開したにもかかわらず、それが世に《広がる前》に、すでにマルタン・ラヴェルの理論が、当時の一般大衆つまり「サロン」に喜んで受け入れられていた。                                      

フランスの有名な菌学者マランソンは次のように書いている。

《この討論には、トリュフの生産者、売買人、農民といった、実際的だがしばしば先入観で鈍った知識を持っている田舎の人々と、問題を科学的にしか捉えないさまざまな分野の学者といった二種類の人々が参加した。抗争の結果は押して知るべしである。前者は「決して実地の生徒ではないにもかかわらず、簡単に先生言葉で話す、これらの紳士方の気取った口調」を批判し、後者は、相手の幼稚な主張に時には笑いさえ浮かべていた。                    

《弁護士のジャック・ドゥ・ヴァルセールの影響で、第二皇帝時代と1870年以後、上流社会の人々も論争に加わった。残念ながら、彼は科学的な知識よりも、才気や論争の才能にたけていたので、トリュフについてサロンの話題を牛耳っていた。

                【90】

《現在は、少なくともトリュフに関しては少し静かな時代であり、当時のトリュフ騒ぎを冷静に眺めることができる》(マランソン、「Les truffes européennes」、Revue de Mycologie,研究報告、増刊号-1号、1938年。

  科学アカデミーが「トリュフを生む蝿」の理論を棄却したことにより、社交界の中でそれを支持していたヴァルセールは激怒した。彼は1857年から1868年まで、「La Presse」、「Le Constitutionnel」、「La Gazette des campagnes」の新聞に一連の論争記事を掲載した。やがて、1874年に「アカデミー」を反啓蒙主義と批判した小さな本を出した。

《私は多くの講演を通して、新しい学説の真実性が明らかになるまで証明していくつもりである。アカデミーの時代遅れで、虫の食った学説の不条理さを暴いて見せよう...それに生き残りのトリュフ作家は、科学アカデミーの会員になりはしたが、すでに馬脚を現わしている》(ヴァルセール、「Culture lucrative de la Truffe par le reboisement」、パリ、1874年)。

  それに続いてヴァルセールは、最初に菌学者のテュラーヌ、のち「アカデミー会員の卵、科学の問題児、アヴィニョンのリセの自然科学の教師ファ-ブル氏」を激しく攻撃している。ヴァルセールは二年後にもう一冊の本を出しているが、それにも論争の姿勢は崩していない。ファ-ブルはこれらの過激で、不当で、悪意に満ちた個人的な攻撃について何の反応も示さなかった。彼はもうアヴィニョンを去ってオランジュに引きこもっており、この論争にはまったく関心がないようであった。

p_90【絵】名前のない一連のキノコ。ファ-ブルの水彩画、1893年9月。